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2021年02月の記事は以下のとおりです。

少年時代の記憶は人生を通じて私を強く支配しているらしい

  • 2021/02/13 16:39

 ここ丸一年は日本をはじめ世界中をパンデミックに巻き込んでいる、新型コロナウイルスに関する情報が溢れている。もちろん私自身もこのブログを通じてそれに加担している。しかし、前回のブログの時もコロナウイルスの細かい話は止めると書いたが、今回もそれを踏襲するつもりである。
 さて、私に最も鮮烈な影響を与えた出来事のひとつは、アメリカの第35代大統領のジョン・F・ケネディ大統領が暗殺され、それが初めての早朝の衛星放送で伝えられた劇的なものがあったが、ここで話題にするのはそれではなくソビエト社会主義共和国によるスプートニク1号の打ち上げであった。

 実は私は父親の仕事(仁川高等商業学校の教師)の関係で朝鮮・仁川で生まれ、無用な太平洋戦争を引き起こし敗戦が決定的になっていた日本に5歳の時に急遽帰国した。その場所は父親の故郷である三重県多気郡三瀬谷村で、大台ケ原を源とする美しい宮川が流れる自然あふれる山奥、最寄り駅は紀勢東線の三瀬谷駅(今は紀勢線と統一されている)であった。私は地元の小学校中学校に通い、当時の学区制によれば高校は兄同様に県立相可高校を受験するのが普通であったが、父の指示で父の母校であった県立山田中学の後継県立宇治山田高校を受験することになり、幸い合格して宇治山田市(今の伊勢市)までの長距離を早朝確か5時50分頃に紀勢東線に乗り、相可口駅で参宮線(いずれも国鉄)に乗り換えておよそ2時間をかけて毎日通っていた。今から考えれば恐ろしいほどの通学経験であった。

 その通学途中のことである。スプートニク1号(83.6㎏、直径58㎝)の打ち上げは1957年10月4日にカザフスタンのバイコヌール宇宙基地から打ち上げられ、遠地点950㎞、近地点230㎞の楕円軌道に打ち上げられ、一周96分余りで周回していた。まさに歴史的偉業であるから、どうやってそれを見ることができるのか、あまり明るすぎず、しかし軌道のあたりは水平線からの太陽の光が当たって衛星がそれを跳ね返すことで地上から見られる可能性があった。幸い高度があまり高くないのでうまくすれば裸眼でも見ることができるというわけで、新聞には夕方の何時何分頃にどの方向に見える可能性があると毎日報道してくれていた。打ち上げから何日目のことだったかはもちろん記憶にないが、毎日夕方、確か6時ころだった記憶があるが、参宮線から尾鷲方面への紀勢東線に乗り換えるために相可口駅で降りてある時間を過ごしていたのであるが、その時が偶然ホームをうろうろしていた私たちの頭上をスプートニク1号が音もなく飛んでいたのである。当時はその時刻あたりにしばしば空を見上げていたのである。

 それで見ることができた衛星はまさに音もなく、滑るように星空の中を動いていたのである。それは私には衝撃的であった。とにかくそれは飛行機ではなく、何百キロ上空を、つまりその当時の私の頭の中では星の間を、つまりは訳が分からないが宇宙を星に交じって飛ぶようなものをソ連は作って飛ばしているんだ、というとんでもないことをやっている、いやそんなことを人間はできるんだということを実感していた。家に帰ってみんなに”見た見た!スプートニクを見たよ!!!”ときっと叫んだんだろうと思う。
 そんな衝撃的な経験をしながら、しかし高校での物理学の勉強は大嫌いで、これではどうしようもないということで、たまたま姉の知り合いでもあった高校の物理の先生宅に教えを乞うことになってしまった。しかしである。結局それもドタキャンして物理学を放り出してしまった。しかし自然豊かな山奥で育った私は昆虫採集に明け暮れ、農作業を手伝う傍ら畑には花畑を作り、家では当時アメリカ輸出で小遣い稼ぎになっていたカナリヤの繁殖・飼育や空気銃で小鳥を撃っては焼き鳥を楽しみ、また大好きな野球をとことん楽しみながら、結局は1年浪人後に名古屋の大学に入学し、その後理科系の勉強をすることになり、物理学も何となく少しは理解できるようにはなっていた。

 そして、大学で20年近く”生き物”の化学の研究をつづけ、しかし子供の頃に親しんだ生き物を、もっと生き生きと理解したいと腹をくくり、アメリカ カリフォルニアの大学に家族と一緒に渡米することとなった。そこで家族のみんなが日本から遠く離れた外国での生活に戸惑うことも少なくなかった。そんな中気になったことのひとつは国際電話での音声の遅れである。こんなことを考え始めてとうとう私の中に眠っていた幻が目覚めた。私はつたない物理学の知識で、やれ静止衛星だの、それに必要な36,000kmというとてつもない高度や、それに必要な速度(確か9.8km/秒くらい)などの話を子供たちとしばしば議論した思い出がある。いずれにせよ私の頭の中からは人工衛星の残像が離れてなかったのである。
 それ以降も私の頭の中にはいつも人工衛星がたたずんでいた。ロケットの打ち上げと言えばいつでも秘かにハラハラドキドキでそのニュースを見守っていたのである。特にそれが大きく目を覚ましたのは2003年5月9日に小惑星イトカワの探査を目指して打ち上げられてからである。そして、二度の絶望的な状態から予定より3年も遅れての地球帰還を2010年6月13日に果たした初代「はやぶさ」であった。そのことをブログに書き、泣きたくなるような印象的な写真を掲載したhttp://www.unique-runner.com/blog/index.php/view/112 )。それは地球帰還を果たして大気圏に突入する前にイトカワの貴重な試料が入っていると思われるカプセルを右前方に放出し、はやぶさ自体は燃え尽きようとしている写真である。このブログでも再掲したい。

 これを見た時私は胸が熱くなった。それは宇宙で二度も行方不明になったはやぶさをかすかな電波を頼りにして必死の思いで探し出し、それを再び手中に収めて巧みに制御し、イトカワの試料の入ったカプセルをもって地球帰還を成し遂げたJAXAスタッフの喜びと寂しさを感じたからである。それから4年後の2014年11月30日、しっかりと改良されたはやぶさ2が再び生命の起源という最大のミッションを掲げ、やはり小惑星のリュウグウに向かい,2018年に到着した。人工クレーターを作るという思いもかけない方法を駆使して多くの岩石などの試料を持って帰還するという輝かしい成果については昨年12月のことであり、皆さんは記憶に新しいことと思いますので、何枚かの新聞記事の写真を掲載して簡単な説明をするだけに留めたいと思います。1枚目の写真は初代はやぶさの帰還時に大気圏突入した時の写真、2枚目ははやぶさ2のカプセルがオーストラリア・ウーメラ砂漠に帰還した時の写真、3枚目から5枚目の写真は驚きのカプセルの中味についての写真である。

 こうして小惑星リュウグウから大量の岩石などの試料(ガスも回収されている)を持ち帰ったはやぶさ2本体は、初代はやぶさとは異なり本体にほとんど問題が発生しておらず、また十分な燃料を維持できていることもあり、拡張ミッションとして小惑星1998 KY26への飛行に飛び立っている。2031年7月に到着が予定されている。改めて今回のミッションを完璧に成し遂げたJAXAのチームに称賛の言葉を送りたい。JAXA宇宙航空研究開発機構相模原キャンパスは自宅から自転車でも行ける距離にあり、これまで何度も訪れてはやぶさの展示や様々なロケットの大きな実物モデルも展示されており大いに楽しませてもらった。近いうちにまた訪れてみたいと楽しみにしている。食堂もあるのでゆっくりご覧いただきたい。

 今回このようなブログを書いた目的は、この私のブログは私自身の日記帳であることと、自らの記憶に残っていることを子供たちに残しておくことが第一の目的であった。そしてまた一般的にもそうであるが私にとっても少年時代の経験・記憶が人生を通じで大きな影響を自分自身に与えていることから、そのような記憶や経験は極めて重要であり、子供たちが小学校から大学に至るまで受験勉強に忙殺されないように願いたいとの思いを書き残したいと思ったからに他ならない。だからと言って、私の経験が良いものであったかと言えばそれは分からない。個々人の人生はそれぞれにとって貴重な結果であり、評価があるとすればそれは歴史的判断であろう。なお、写真はすべて読売新聞のものである。拡大してご覧ください。

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