(1997年夏)
「大阪大学創造教育研究センター」構想
(1)はじめに
 わが国のこれまでの欧米へのキャッチアップ型社会の在り方は、それなりの成果を挙げ、敗戦後の混乱の中から今日の物質的繁栄をもたらし、わが国を世界有数の経済大国に導いた。しかしながら、50年以上という長きにわたるこのキャッチアップ型社会を支えた教育は、多くの矛盾を生みだし、社会構造の硬直化とともに青少年教育に多くの歪みをもたらすに至った。その結果、現在あらゆる分野からこのタイプの社会からの脱皮が求められ、一人一人の人間が余裕をもって、生き生きと、そして創造的に生きることのできる社会への突破口が求められている。
 このような事情は、科学・技術研究にも求められている。キャッチアップ型ではない、またただの積み重ねではない創造的な研究を生み出すことなしに、わが国がこれからの国境なき世界で重要な役割を果たしつつ生き抜くことは困難と思われる。
大学は、これまでのわが国の発展過程において主導的な役割を果たしてきた。言い換えれば、このキャッチアップ型社会を支える人材を豊富に輩出することを求められ、それを実現してきたといえる。大学はこのことを率直に認め、新しい道を模索しなければならない。
 大阪大学はわが国における教育・研究において極めて重要な役割を果たしてきた。そのスタッフ数、学生数ともわが国3位の大規模大学である。しかし一方で、新しい道を教育・研究の中で見い出すことは、大規模大学であるが故に困難でもある。大阪大学が、真にわが国の教育・研究において有意義な役割を果たし、真にユニークな存在であるためには、教育・研究体制の見直しとそれらについての研究を行い、創造的な環境を具体化し、若者がそれを体験できる場を実現しなければならない。
(2)何を目標とするか
 目標は、現状の的確な把握とその改善、発展によって大阪大学に一つでも多くの独創的な芽を教育、研究の両面において構築することである。そのためには文科系、理科系スタッフによる共同研究体制をとり、次の目標を実現することによって大阪大学における独自教育の責任部局とする。また、特に理系の研究において今後の大きな流れになると思われ、かつ現在の科学の枠組みに入り切れない複雑系の問題をも扱い、その点での研究の拡大とそれを若者に提示することによってまったく新しい興味を呼び起こすことを目標とする。また、そのような芽を社会人に提示することによって新鮮な興味を呼び起こすとともに、社会人からの新鮮な問題をも大学が感じられるようにすることも重要な目標である。以下、その目標を列挙する。
1.大学、高校における教育内容・方法の見直しと問題点克服の研究
2.教育・研究の歴史を、具体的なモノを通して理解できるユニバーシティ・ミュージアムの設置
3.学際的研究の背景となる学際的教育(学部・大学院生向け)の実習施設・設備の設置
4.新しい研究の突破口となる可能性のある複雑系(非線形系)研究の実施とそれについての教育(学部・大学院生向け)の実習施設・設備の設置
5.自然に対する実体験を援助できるスタッフの充実
6.リフレッシュ教育コースを実施・援助できるスタッフと設備の充実
(3)各論
 上に述べた各々について解説する。
1.大学、高校における教育内容・方法の見直しと問題点克服の研究
 大学における教育の有効性についてはその把握が実に困難である。この教育の有効性とその評価を如何に行うかについては、大学において一致したコンセンサスがあるわけではない。それにもかかわらず、その有効性を信じて行われているのが実情である。この点は大阪大学でも同じであり、この点の判断を各部局に指示する権限を持つセンターが存在しない。したがって、特に低学年教育を共通教育機構に一任してしまう風潮が生まれている。しかし、共通教育機構は、常駐の専門家の教官が配置されているわけではなく、ここでも責任の所在が明確ではない。このような状況を克服することを研究対象とし、その成果をフィードバックする権限をもたすことによって現状を打開するのである。
 一方、どのような方法をもって教育を行っていけばよいかも教官によって千差万別であり、ここにもコンセンサスは存在しない。学生が最も理解しやすい方法を研究し、それに基づいた教育を行うことをほとんどの大学教官は知らない。どのような方法をとればどのような効果が現われるかをほとんど理解していない教官による教育がどんなものになるかは想像に難くない。このような点の現状理解に優れた研究者による研究は、大学が基本的に実施すべき課題と考える。
 大学で教育・研究を担当すべき者として在籍している教官は、実はそれぞれの学問分野においてそれなりの研究業績を上げることによってその籍を得ている。通常、小学校、中学校や高等学校の先生になろうとすれば教育をするに必要だと考えられる分野の教育をある程度受けることが義務づけられており、それを欠いては絶対に先生にはなれないことになっている。このことは、社会の基盤を構成するであろう未だ成熟していない若年層の教育を担当することの重要性から当然要求されることとして理解される。しかし、大学の教官にはこのことが全く要求されていない。それは多分、大学に入学してくるような世代の若者はすでにある程度の精神的な安定性と自覚を持ち、勉学意欲に満ちた者達であるとの前提に立っているからだと思われる。従って、大学の教官が各分野で先端的な研究業績を挙げることにその大半の時間を割き、それを教育の課程に導入したとしてもそれを受け取る能力を十分に持ち、それをさらに継承・発展させてくれるものとの暗黙の前提が存在する。
 敗戦後50年たったいま、この前提が通用しないことはほとんどの教官が感じている。しかしながら、それにしたがって教育内容・方法を変えているとは考えられない。このような前提が成立しているのか、どのような資質をもった学生が入学してくるのかを真剣に研究課題にすることは、大学がその役割を的確に果たすために欠くべからざる仕事である。
2.教育・研究の歴史を、具体的なモノを通して理解できるユニバーシティ・ミュージアムの設置
 最近、若者の理科離れ、現業離れが叫ばれて久しい。これは第5項とも関連するが、個性豊かで独創的な人材の育成には、学生が多面的な情報をもつモノ(一次資料)に直接触れることが出来るような機会をできるだけ多くすることが必要欠くべからざることである。大学がそれまでの教育・研究過程で蓄積した資料を有機的に組織化して展示し、学生・教官の目に触れやすくすることが重要である。このことはまた、高校生以下の生徒に開かれることで彼らに新鮮な刺激を与えることとなり、創造性豊かな学生の育成に資する可能性が高い。欧米の優れた大学には、そのほとんどにミュージアムまたはそれに類する施設が備わっており、この点でのわが国の大学の実情は貧しい。幸い、本学にはすでにミュージアム構想があることから、それを併設することは可能であろう。
3.学際的研究の背景となる学際的教育(学部・大学院生向け)のための実習施設・設備の設置
 近年、研究の領域はますます広がり、かっての個別科学の枠を越えてさまざまな境界領域へと拡がりつつある。したがってもし、各学部の学生(学部・大学院生)のために、特に理系の境界領域の教育を試みる場合には、多くの先端的な施設と設備を要求され困難な場合が多い。また、その教育に必要なスタッフを各々の部局が採用しておくことは難しい。したがってそのような目的のために、数学を始めとした物理学、化学、生物学、地球科学の境界領域の、しかも先端的な領域のための施設と設備とその研究と教育のための専任のスタッフを置くことによって、各部局での重複を防ぐことができる。
 最近、上のような事情とともに学生の興味が分散していく傾向が見える。そんな中でカリキュラムにも小人数を対象とした多彩なものが要求される傾向にある。したがってそのような要求をも満たすためには、境界領域の教育実習を随時行うことのできる設備と施設をもつセンターの存在は極めて有意義なものとなろう。
4.新しい研究の突破口となる可能性のある複雑系(非線形系)研究の実施とそれについての教育(学部・大学院生向け)のための実習施設・設備の設置
 近代科学は、要素論的手法を駆使して大きな成果を挙げ、科学時代の幕開けとなった。そして現在、その限界を克服し、科学全体としてさらに大きな発展を求めて複雑系(非線形系)の解明に大きな関心が寄せられている。本来、社会現象、自然現象はそのほとんどが非線形系と考えられており、いままではそこを避けて理想状態の解明に力が注がれてきたといえる。しかし生命現象や環境問題などは、非線形の系として解き明かすことが避けられないと思われる。その実践的研究とともにこの点の教育的価値は新しい時代を画すとともに、新しい世代を新しい枠組みの興味ある問題の中に取り込み、創造性豊かな学生を育むには最も適当な題材と考えられる。
 このような系の実践的研究の中で、教育的価値に優れた研究を行い、それを新しい教育の中に生かすものを選別し、このセンターのひとつの中核とすることは、既存の科学との対立を明確にし、その議論の中で全体として新しい枠組みの形成を促進し、科学全体を新しいレベルに引き上げることにも繋がると考えられる。また、本センターにそのための研究と教育に必要な施設と設備を充実することは、新しい枠組みをも視野に入れた学生・研究者の育成という意味で画期的である。
5.自然に対する実体験を援助できるスタッフの充実
 私たちはいま過度に都市化した場所に住み、働いている。また、これからの時代に生きる生徒・学生はわれわれ以上にその影響を強く受けることは明らかである。このような結果、ヒトは自然から離れ、それを実体験することが出来なくなってきている。そのようなことは、結果として、場や時間を輪切りにしたような思考方法しか取れなくなりつつある。確かにそのことが新しい発見を引き出す可能性に繋がるとは言え、自然の幅広く、深いつながりを解き明かすような粘り強い、グローバルな活動を呼び起こすことにはなじまず、大半の研究者が実験室に留まることを実現してしまった。
 大学を出て社会人として別の世界、たとえば教員として、あるいは文教関係者として活躍してきた人々が新しい学問に再び触れることによる再教育を受ける場が現在どこにも存在しない。それを大学が積極的に行うことは大学と社会の距離を縮め、誤った教育や文教政策を避ける意味できわめて重要である。この場は、企業の研究所などでの生活を経験した人が、新たな研究のために短期間の再教育を受ける場としても有効である。このような場は、企業などにとって大きなメリットであるとともに、大学が新しい視点を社会から受け取る重要な場ともなりうる。これを可能にするためには、そのためのスペースを確保し、課題によってはセンターのスタッフが協力できるようにすることが必要であろう。
・.必要なスタッフ
 上の目標を実現するに必要な各項目別のスタッフは以下のとおりである。
1.大学、高校における教育内容・方法の見直しと問題点克服の研究およびそれによる教育
教授2、助教授1、助手2、技官1(理系、文系の2分野を目標)
2.教育・研究の歴史を、具体的なモノを通して理解できるユニバーシティ・ミュージアムの設置とそれによる教育・研究
助教授2、技官2(理系、文系の2分野を目標)
3.学際的研究の背景となる学際的教育(学部・大学院生向け)の実習施設・設備の設置とそれによる教育・研究
教授1、助教授2、助手2、技官2(数物系、化学・地学系、生物系の3分野を目標)
4.新しい研究の突破口となる可能性のある複雑系(非線形系)研究の実施とそれについての教育(学部・大学院生向け)の実習施設・設備の設置
教授1、助教授2、助手2、技官2(数物系、化学・地学系、生物系の3分野を目標)
5.自然に対する実体験を援助できるスタッフの充実
教授1、助教授2、助手2、技官2(数物系、化学・地学系、生物系の3分野を目標)
6.リフレッシュ教育コースを実施・援助できるスタッフと施設・設備の充実
助教授2、助手2、技官2(上の2から5までのスタッフによる併任)
したがって、1から5までのスタッフ数は合計、
教授5、助教授9、助手8、技官9
・.必要な施設・設備
 上の目標を実現するに必要な施設・設備は以下のとおりである(未完)。
・.重点化との関連
 本学では大学院重点化が着々と進んでいる。その結果、研究費やスペースの面での新しい基準による査定によって研究環境も改善されつつある。しかし、一方で多くの大学院生が生まれていく中、社会からは厳しい目でも見られている。それは、わが国の大学院、特に後期課程を終了して社会に出る研究者には、幅の広さが感じられないとの批判である。この批判は必ずしも的外れではない。なぜなら、現在の日本の大学における研究は多くの場合大学院生が担っている事実があるからである。その理由は、研究単位におけるスタッフや研究を援助する職員の数が少なく、大学院生ときには学部学生さえこれに参加しなければ多くの論文を生産できない実情にあるからである。このような状況に置かれた学生の前途が必ずしも幸せではないことから、重点化されながらなお多くの学生が大学院への進学を躊躇することとなり、重点化の効用が必ずしも充分に生かされているとは言えない。
 新しい時代に育った学生に新しい創造的な教育を如何に行うか、この際日本の大学は思いきった形でソフトとハードの充実を目指す時期にさしかかったように思われる。わが国の大学は、教育機関でありながら、その教育に対する投資は如何にも少なすぎる。別の言い方をすれば、教育機関ではなく、研究機関のような様相を呈している。確かに研究に投資する方が、目先の成果として現われやすいかもしれないが、長期的な観点からもっと別の、ここでの議論でいえば教育に対して先行投資をすることが社会問題としての教育を改善していくことになるのではないだろうか。・の第1項で述べたように、学生の資質はここしばらくの間に大きく変わってきている。このような状況を的確に把握することなしに、教育内容とその方法をなおざりにすることは高等教育機関である大学として許されないことと思われる。
 ここしばらく、キャッチアップ型の社会からの脱皮が叫ばれている。それに向けて多くの先端的な研究に対して多額の研究費が出されていると聞く。しかしそのために真に必要なことは、これからの時代を支える学生・生徒をどのように育てるかにあるはずである。そのような視点を欠いた大学改革はありえないと思うが如何であろうか。平成7年7月17日に出された『「創造的人材育成のための大学教育の改善についての緊急提言」について』にも、大学教育の改革が求められている。そこにも大学への「創造教育センター」の設置が提言されている。この点を重く受け止め、思いきった改革を行うことを提言する。
(この文書は1997年、平成9年夏に書きまとめたものである)