例年通り、今年も「夏休み子供科学相談」がNHKラジオで始まった。この番組が始まる午前9時頃は通勤の車上にいることもあっていつも聞いている。子供が質問してくる中味の面白いこと、そしてそれに苦労して答えている先生方の姿を想像して、楽しく聞かせてもらっている。そして同時に、毎年複雑な想いがこみ上げてくるのを感じている。
 質問してくる子供は、そのほとんどが幼稚園児から中学生までであるが、幼稚園児から小学生が最も多いのであろうか。その質問と答えのやり取りの中でいつも心に引っかかるのは、子供達の振る舞いである。それは学級崩壊とかに象徴されるような事柄ではなく、真面目すぎる、あるいは応用の利かない対応の仕方である。
 子供達の質問は、きわめて基礎的なものである。あるいは、我々が当然と考えていることに対する質問であることから、答えを迫られる先生方の解答の仕方も大変難しく、また言葉も難しい。先生の「わかりましたか?」の呼びかけに対して、ほとんど100%「はい」である。「でも・・・」とか「いいえ、わかりません」とかの返答はほぼ100%ないのである。万が一「わかりません」と答える場合には、それはいかにも恥ずかしげな声である。
 往々にして日本人のこのような態度、つまり、わからなくてもわかったような振る舞いをする、あるいは、いつでも「はい、Yes」と言うというのは学校教育の中での教育の仕方にあると言われてきたように思う。しかし、学校に行っていない子供達も同様の応答をするのが不思議である。分かっているはずもないのに「はい」と言い、滅多にないが、分からない場合には恥ずかしげな小さな声で「わ・か・り・ま・せ・ん」というのはなぜだろうか。学校に行っていない子供達でもそうであるのだから、この原因は主として家庭や、子供達が集う社会的な場にあると考えるのが普通であろう。そこにはきっと、上下関係を機軸とした親と子、先生と生徒という関係が貫かれていて、一人の人間としての子供や生徒がいるわけではない、と考えるしかない。
 このような状況は大学生になっても変わらない。講義でもよほど質問を催促しない限り質問がでることはない。ただ、黙って聞いているだけである。真面目な学生は、後で聞きに来るか、自分で調べるのである。「わかりません」と言うことをこれほどまでに恥ずかしく感じる社会とは一体何であろうか。これについての解説はいろいろあることを知ってはいるが、そのどれもが私には説得力を持たない。ときどきへまなことを言っては笑われる私にも同様な感情が頭をもたげてくる。一体どうしてであろうか?「わかりません」と言うことは恥ずかしいことである、という観念は小さな子供から大人まで日本社会を貫通している。もっと簡単に言えば、要するにお話ができないのである。
 どうもこのような状況の先に、学級崩壊とか思わぬところに噴出する子供達の際だった行動があるようである。かって私が米国のStanford Universityに勉強に出掛けて、その大学のあるCaliforniaのPalo Altoで生活していたときのことである。アメリカに行ってすぐに、大きな借家の庭でタバコを吸っていた私に隣の家の幼稚園にも行っていないような小さな女の子が突然、"Why don't you stop smoking?"と言われてびっくりした覚えがある。その時の女の子の顔がいまでも私の脳裏から離れない。しかし、アメリカでも子供達の理解しにくい行動が頻発することに変わりはない。あるいは、ひょっとすると、日本とアメリカの子供達の行動の背景には大きな隔たりがあるのであろうか。
 最近大阪大学は、大阪大学の学生が自分の大学を良く言わないことに悩んでいる。その原因を探ろうと2年にわたって議論が続けられたが、その議論の中で、大学は学生をパートナーとしてではなく、管理の対象としてしか扱ってこなかったのではないかとの深刻ではあるが前向きな結論が引き出されることになった。
(2001年7月30日)