ホノルルマラソン2005
ーはじめてのハワイが最高の舞台にー
 私のパソコンのディスプレイには、いまも次のようなメモが貼り付けられていて、パソコンを動かすときにはいつも現れる。
 これははじめて参加する第33回ホノルルマラソン(公式名称: 2005 JAL HONOLULU MARATHON & RACE DAY WALK)の目標設定タイムである。私のこれまでの自己ベストは、2005年4月の長野オリンピック記念長野マラソン公式タイム3時間53分13秒(手元の時計で3時間52分57秒)で、これを更新したいのは山々であった。しかし、20度を超える気温、かなりの高低差などを考えると無理をして自己新をねらうことは私にとっては危険な賭でもあった。そして、場合によっては4時間半、悪くすると5時間という思いもよらぬタイムになりかねない危険をはらんでいた。したがって私は、この目標タイムすら公言することはなかった。ただただ密かに胸にしまい込んで、今春からの新しい戦略ー身体への負担が最も少ないイーブンペースー死守の戦略を貫くことを目標としたのである。それではレースの経過を説明する前に、レースに臨む調整について書いておきたい。
体調不良からの脱出
 昨年2004年11月の「大阪・淀川市民マラソン」のハーフマラソンで初のリタイアに追い込まれ、野口みずき選手が招待された今年初めの「高槻国際シティハーフマラソン」でもあわやリタイアにまで再度追い込まれた私の、それを契機にした調整法はLSDで、速くないスピードでできるだけ長い時間と距離を走ることの徹底でもあった(「新・ゆっくり走れば速くなる」浅井えり子著、ランナーズ参照)。これは長時間のマラソンに耐える筋力、筋持久力、そして精神力などをゆっくりと走って鍛えるトレーニング方法であるが、私にとってもなかなか取り組みにくい課題であった。しかし、はじめて感じた体調不良を克服する方法はこれ以外に考えられなかったことから、思い切ってそれに賭けたと言っても過言ではなかった。
左のグラフをご覧になれば、昨年の12月からそれまでよりときには月間100キロ以上も走行距離を伸ばしていることがはっきりと分かるであろう。これまで月間200キロ以上走ったことは何度もあったが、これほど継続的意識的に走ったことはなかった。その結果、体脂肪量や体重の減少を併せて実現し、春3月の京都シティハーフマラソンでは復活の印として1時間44分22秒、4月の長野オリンピック記念長野マラソンでは3時間52分 57秒で自己記録を更新した。また、秋10月の滋賀県マキノ町での健康栗マラソンでは1時間45分51秒、11月の大阪・淀川市民マラソンでは最悪のコンディションにもかかわらず1時間46分10秒とほぼ安定して走ることができるまで回復した。
ハワイの風景
 ハワイにはレースの三日前の12月8日に到着し、直ちにアロハタワーから出る3時間程度の湾内クルーズに出かけ、海側から美しいワイキキ海岸周辺やダイヤモンドヘッドを観ることができた。澄み切った空となんとも言葉にしがたい海の色ははじめてハワイに訪れた私たちにはきわめて印象的であった。
また、私たちのホテルから眺めたダイヤモンドヘッドとワイキキ海岸は最高の眺めで、まだ時差ぼけの眼で見る朝日の出はダイヤモンドの輝きそのものであった(左下)。また、レース前々日に訪れたアラモアナ公園は海辺に面したきれいな公園で、まだスタート時の喧噪を想像することはできなかった(右下)。
レースの経過と結果
 はじめにも書いたとおり、私のレース戦略はいかにイーブンペースを守れるかにかかっていた。そのペースをどのように設定するかについては、ナイキのHPにある"Pace calculator"機能を使うこととした。それはホノルルマラソンコースの特徴にしたがって1マイル毎のラップタイムを設定してくれる機能である。特にダイヤモンドヘッドの周辺にある坂(往路8-10マイル、復路24-25マイル)はかなりの標高差があり、どのようなラップを刻むかは初参加の私には全く不案内のことであった。そこで計算されたスプリットタイム表をナイキが提供してくれた腕輪にして時計とともに携帯した。また、1マイル毎に設定されたラップタイムは、それをメモリーとして組み込むことのできるナイキの腕時計("Triax Speed 100 Super")にそのデータを入れて携行した。レース時に1マイル表示毎に時計のボタンを押すと、あらかじめ設定されたラップに比べてどれくらい早いのか遅いのかが瞬時に表示されるものである。この腕輪と時計とでできる限り正確にラップを刻むこととし、併せてキロ表示に慣れている私自身のためにもうひとつの時計を右腕にはめて、5キロ毎にあるであろうキロ表示のデータをとることとした(実際にはかなり失敗した)。これらの基礎になる目標タイムは、無理をしない為もあって最初に書いたとおり3時間55分とし、そのための速度をジムでのトレーニング時にできるだけ体が覚えられるように努めた。

 また今回のフルマラソンで変えた点は、いつも後半に起きる失速に対して用具面からの改善を志したことである(下の長野マラソンでのデータ参照)。そのために今回はナイキの" Zoom Air Katana Cage"を使うこととした。前走の大阪・淀川市民マラソンではじめて使用し、後半の失速がほとんどなかったことから自信を持ってこのレースに用いることにした。クッション性と反発力という一見相反するような不思議な感覚を味わえるシューズである。

 レースは午前5時にスタートなので1時過ぎには起床した。2時間くらいしか寝られなかったと思うが、そんなことは全く気にしなかった。そして3時間前には軽い食事を済ませ、3時過ぎにスタート地点に向けて出かけた。なお今回のレースでは、ある事情でTBSテレビから取材を受けることになっていたためその取材陣に同行した。当日の気象条件は、ホノルルマラソン協会事務局の公式ウエブサイト(http://www.honolulumarathon.jp/)によれば、スタート時の気温は摂氏21度、午前11時の気温は26度、風速はほとんど感じないそよ風程度であった。ただ、それでもマラソンに適温といわれる温度より10度ほど高いことは事実であった。

 スタートは、トップの招待選手と一般参加ながらトップクラスの選手たちがおおよそスタートした後に合流した。最終のエントリー数は28,048名ということで、すさまじい数のランナーであったが、日本でのスタート時の殺気だった雰囲気は全くなく、スムースな落ち着いたスタートというのが最初の感想であった。多くのランナーのために自由に走ることは難しかったが、それはちょうど良いウオーミングアップと考えることにした。1マイル過ぎる頃にはほぼ走りにくさを感じるような激しい混雑もなくなり、徐々に調子を上げることができた。以下にあらかじめ設定したラップと実測値のラップ、その差などを表とグラフにしてみた。なお*は、ボタンの押し遅れのために不正確になったタイム差を設定ラップがほぼ同じことから均等に割り振ったものである。
 上のデータとそのタイム差をグラフ化したものをみれば分かるように、最初の混雑での47秒のプラスは想定内のものである。その後徐々に体が温まる3マイル過ぎからは、あらかじめ設定したラップからマイナス20秒前後のラップで一定してきた。設定ラップより早いことは当然分かっていたが、体調は十分にそのスピードに耐えられると判断して少し早いラップで走ることを容認した。ただ、前半の上り坂ではほぼ設定ラップに近い数字となっているが、その後の後半部分でもその速いペースで走り続けたが、残念ながら残り3マイルの上り坂の辺りから遂に疲れを感じ始め、徐々に設定ラップよりプラスのタイムになってしまった。この辺りになるとすでに頭の回転が悪くなり、なんとかしなければという強い意識をもてなくなっていたことをいま感じている。この上り坂でのデータは、私の上り坂に対する弱点を表しているようである。

 それにしても、上のデータにあるとおりHalfの時計はゴールの時計のほぼ半分であることから、全体としてはパーフェクトなレース運営であったことが分かる。過去4年間の長野マラソンの中間点とゴールタイムを列挙してみると今回の自己ベスト更新が理解できる。 
                        中間点     ゴール
            2002     01:48:41        03:57:01
           2003      01:49:08        04:10:25
           2004      01:50:56        03:55:25
           2005      01:50:36        03:52:57
     Honolulu     01:56:03        03:51:45

上のデータをみると、今回は飛び抜けてイーブンペースであったことが分かり、改めて今回のレース運びがほぼ完璧に近かったことが伺える。それを支えたのは、トレーニングは当然としても、新しいシューズの採用、ペース設定などさまざまな要因があろう。特にシューズに関しては、走り終えた後も足裏や爪にほとんど何の異常もなく、気持ちよく走れたことを伺わせた。もっといえば、不思議なことにレース中シューズのことを考えることが全くなかったのである。それにしても、やはりマラソンは持久戦なのである。その意味でも、これからの課題は最後の数キロの落ち込みをできるだけ少なくすることであろう。そのためにはさらなるLSDの徹底が必要かもしれない。
あとがき
 今回のレースで私はテレビ取材の対象になっていたため、私には目印になる風船をもったベテラン(この大会を20回以上走っており、2時間台?のベストタイムをもつ)の伴走者が付いていた。しかし彼は、体調不良だったようで12マイル辺りで脱落したため、代わりに私が風船をもって走ることになってしまった。およそ数キロ風船を手に持って、あるいは腕にくくりつけて走り、折り返し地点を過ぎた辺りで取材陣の許可を得て大空に放つことができた。これは少し苦しい経験だったが、私をみた日本人ランナーに、”これは4時間ペースの印ですか?”と聞かれて、”いや、たまたまです”と苦笑して答えたことを覚えている。それにしても、後半の苦しいとき、前を走るテレビ取材車のカメラが私を励まし、集中させてくれたことは確かであった。そしていろいろな”めったにない”、楽しい経験をさせてくださったことに対し、また、さまざまなサポートをしてくださった方々に対してここに深く感謝したい。今回、10キロのRace Day Walkに参加した妻とともに楽しめたのも皆さんのお陰である。
 それにしても、リピーターが多い大会であることは十分に納得した。
 なお、この報告のアップロードがあまり遅れては時機を失すると思い、文章や写真が未熟ではあるがとりあえずアップロードすることとし、良い写真などが入手できれば改めて追加編集をすることとした。
 
 なお、左下に私のゴール時の写真(黒いロングパンツ姿)と、一緒に参加した息子とフィニッシャーTシャツを着た写真(猪狩氏撮影)を右下に付け加えておく。
   (2005年12月27日)