(1998年2月6日)
「大阪大学の決断−1」
(「大阪大学創造教育研究センター」構想付属文書)
1.はじめに
 大学での新入生の講義を1、2ヶ月続けたときの教壇に立つ教師の感慨は果てしなく辛いものである。その頃になると学生の出席率はどんどんと下がり、出席学生の眼から光が失われてゆく。こちらが注意するまでは私語は当たり前で、ほおっておけばいつまでもそのままである。もともと何も質問しない学生達だが、全く質問しそうもない学生へと変わっていくのが実感できる。講義時間に遅刻するのは当たり前となり、講義開始後30分以上たっても悠然と入ってくるものも少なくない。また、私語を注意され、「出ていって下さい」と言われて悠然と出ていくのをみると、何かが変わってきたと感じざるを得ない。
 このような事情は何も大阪大学だけに起こっていることではなく、日本の至る所の大学にみられ、また大学のみならず、高等学校、中学校、はては小学校にでも見られるようになってしまっている。このような状態になった原因がどこにあるのか、誰の責任であるかを今ここで言おうとしているのではない。問題なのは、そのようになった学生はもとより、最初に述べたような感情を抱くことになった教官がどこに向かうかである。
とりあえず、以下に簡潔にまとめてみたい。
2.学生の行方
 とにかく、理由はともあれ出席意欲を失った学生は大学へ出てくることはない。学生が大学にたむろする場所が残念ながら大阪大学には用意されていない。したがってそんな学生は、アパートや自宅でダラダラした生活を送るか、生活を楽しむための資金獲得を目指してアルバイトに精を出すかのどちらかとなる。そして一般に、そのような生活は3年生の終わりまで、場合によっては卒業まで、時には大学院生の時まで続くこととなる。この間学生はほとんど勉強しないとの調査結果は既に出されている。たとえば、大阪大学生活協同組合による1995年の調査によると、37.5%の学生の一日の読書時間はほとんどなし、31.6%は30分ぐらいとなっている。この読書時間がどんな読書時間であるか、あるいは勉強時間を意味しているかどうかは明らかではない。また、本学の全学共通教育機構カリキュラム委員会による不合格科目を持つ学生に対する調査では、平日の自習時間は50%がゼロ、1時間以下が39%という驚くべき結果が明らかになっている。
3.教官の行方
 理由はともあれ講義をすることに度重なる失望感を味わった教官は、その理由のわからなさとそれへの対策の困難さを直感するために新たな試みをする意欲を次第に喪失する。しかし教官には別の場所が用意されている。それはそれぞれの分野における研究である。
 大学で教育・研究を担当すべき者として在籍している教官は、実はそれぞれの学問分野においてそれなりの研究業績を上げることによってその籍を得ている。通常、小学校、中学校や高等学校の先生になろうとすれば教育をするに必要だと考えられる分野の教育をある程度受けることが義務づけられており、それを欠いては絶対に先生にはなれないことになっている。このことは、社会の基盤を構成するであろう未だ成熟していない若年層の教育を担当することの重要性から当然要求されることとして理解される。しかし、大学の教官にはこのことが全く要求されていない。それは多分、大学に入学してくるような世代の若者はすでにある程度の精神的な安定性と自覚を持ち、勉学意欲に満ちた者達であるとの前提に立っているからだと思われる。従って、大学の教官が各分野で先端的な研究業績を挙げることにその大半の時間を割いたとしても、それが許される基盤が社会に存在したのである。
 このような背景のもと、講義に失望した教官は研究に没頭することにより大きな喜びを感じることとなる。しかし研究において大切と思われる、若者からのフレッシュな感覚に基づく批判を失い、それを与えてくれるはずの若い研究者の育成に問題を残すのは必然である。教官が研究者として如何に多くの努力を個人的にしようとも、それには限界があると考えるのは自然である。
 以上のような学生や教官の状態は、お互いが意識するかどうかにかかわらず、互いにスポイルし合う関係である。そのよって来る原因をいま明らかにする積もりはないが、それぞれの状態は、執着心と集中力を欠き、したがって行動は発作的、刹那的なものとならざるを得ない。併せて人と人とのつながりをも失うことになる。このような精神状態で活動する人間集団の行き着くところは想像に難くはなく、最近の理由不明の殺人事件などはそれをよく表している。しかし全体として問題なのは、文化の継承がままならない事であろう。
 現在、想像を絶する「環境ホルモン」の問題が明らかになりつつある環境破壊に、上のような人間集団に見られる破壊現象が合体したときにどのようなことが起こるかは想像に難くないと思われる。そんな解読不可能な時代が決定的になる前に、全ての原因を初等中等レベルの学校教育や家庭教育に押しつけることなく、大学が自らの手でこの難局に対峙する努力をすることが学生や我々自身の再生に繋がると確信する。
4.大阪大学の低学年教育の目標と学生への期待
 大阪大学の低学年教育の目標と学生への期待とは簡単にいえば次のようなものである。本学では共通教育科目の「履修の手引き」において、「本学は、専門分野の高度な教育とともに、社会の激しい変化や科学技術の急速な進歩にも柔軟に対応できる幅広く深い教養と総合的な判断力を培い、豊かな人間性を育てる共通教育を行うことを教育の目標としています」とあり、学生諸君には、「本学の教育課程のあり方と共通教育の意義と目的を十分理解し、積極的な姿勢で共通教育の適切な学習計画を立て、自発的な学修態度で勉学に励み、本学の教育の基本である入学から第・セメスターまでの共通教育の期間を、大阪大学学生として有意義に過ごすことを期待しています」とある。
 以上のような目標は、低学年教育にとどまらず、大学での教育全般の大きな目標であることは論を待たない。
5.学生は約束を守らなければならない
 まず簡単に考えてみよう。大学での教育の基本は講義である。一般的に講義の最初は、前回の講義内容とのつながりを明らかにするための導入部を構成するもので、講義での理解度を高めるために最も重要な部分である。したがって、この部分を特にさしたる理由もなく遅刻することは許されない。講義担当者が宣言する開始時間以降の入室は、余程の理由がない限り認められないとすべきである。
 一方、授業に出席することと同様に重要なことは、講義内容の予習復習である。大学設置基準の改訂によっていまは大学が独自に決めている学外学習時間は、授業1時間当たり(本大学の場合90分授業)全体で4時間(多分予習2時間、復習2時間)が義務づけられている。現在これが守られていると信じているものは誰もいない。これをどのようにすれば守っていただけるかは大きな研究課題である。約束を守るといえば、レポート提出期限を守るというのもままならぬことの一つである。これは教官との約束であり、試験日と同じようなものであるが、これが守られないのである。
上に述べたことは、勉強のために大学にきているとすれば当たり前の話であるが、これが当たり前でなくなっている現実は誰もが認めるところである。今の時代、小学生、中学生そして高校生の大部分は、自宅に帰れば勉強漬けの毎日である。それがよいかどうかは問題であるが、大学生がそうなっていると信じている者はほとんどいないであろう。全ては逆さまになっているのである。この逆転現象を元に戻すだけで、日本の教育問題の大半は解決できると私は信じる。
6.大学教育と高校教育の間の不連続性
 上に述べたようなことをいわなければならない理由はいろいろあると考えられるが、一つだけ重要な問題に言及する。
 端的に言って高校と大学教育の間には大きな矛盾があるが、それはほとんど知られていないか、あるいは知っていてもほとんど放置されたままであり、学生の大学への「不登校」の原因の一つであろうと想像される。最近この矛盾が大きな焦点になりつつあることは、引用してある各種文書で明らかにされつつある。
 例えば生物学系学部(理学部生物学科、医・歯・薬学部)の場合、大学で専門としての生物学を学ぶのは当然で、そのための準備もあって入学当初より生物学系講義を受けるのは一般的である。しかしながら、1994年から施行された新学習指導要領によれば、高校での理科では2科目選択でよいということもあり、比較的受験で点をとりにくいといわれる生物の履修率はそれほど高くはない。例えば愛知県立のある高校の場合、生物学を高校で履修して理系学部を受験する生徒は40名(化学・生物を履修)で、残りの140名は物理・化学を履修している。また近年、多くの医学系大学受験生の90%は物理・化学の選択となってきており、生物学を高校で勉強して理系学部を受験する生徒が少ないのが現状である。この事実を考慮した上で、よく準備された講義を用意しているかが大学側の問題のひとつである。果たして大阪大学はどうなっているのだろうか。
 上のことに付随するもうひとつの問題に簡単に触れておきたい。かっての生物学における基礎基本は概ね今の基礎基本でもあると考えている。これが以前は5あったとして、4しか高校で勉強しなければ大学では専門にはいるためには1埋めればよかった。ところが今はそれに新規追加分があり5+αなのに、学習するのは最大限に見積もっても5、つまり基礎基本の抜けた5になっている。新規分はしっかりした基礎基本5を学習すれば(同時に他の科目も学習済みなのだから)その延長上で理解できると考えられるが、実際問題としてはなかなかそうはならない。その理由としては、+αとして基礎以上のことを基礎基本に加えたことが誤りを犯したのではないかと考えられる。
 これと表裏一体のことであるが、たとえ生物学系といえども現代生物学は物理学と化学を基盤としていることもあり、カリキュラム編成としては基本的に生物学・物理学・化学関係の講義が必修となる。それぞれの基礎を高校での履修でカバーできていれば問題はないが、そうでない場合にはそれらをどのようにして埋められるかが問題となる。
 現代ほどの学問の細分化もなく、大学で電話帳のような教科書の必要性もなかったひと昔前には、それは学生自身の適度な勉学によって未修得科目をカバーすることが可能であった。しかしいまは、的確なガイダンスと基礎的な内容の補充なしではそれはほとんど不可能と言ってよい。そのような高校と大学の不連続性に悩むことになった学生の勉学意欲がどうなるかは想像に難くはない。同様のことは他の専攻についても起こっていることだと思われるし、化学や物理学を専攻する学生が生物学を勉強しようとして生物学系の講義を受講したときにも起こってくる。そのような履修履歴を持つ学生の入学を許可している大学は、ほとんどの大学がそうだが、上に述べたような問題に対してどのような手だてを持っているのであろうか。同質の問題だが、生物学を知らない医者が急増しているとして最近社会問題になりつつある(参考文献4参照)。
 学生が不登校や不勉強として表現するシグナルの原因は、誰もがちょっと考えてみれば、高校と大学の教育における不整合性にあるのではないかと疑えることであろう。このような問題に対する大学側の取り組みがほとんど行われていないところに、現在の大学人の意識をも含めた問題の深刻さがある。
7.私立大学は真剣である
 18才受験者人口の長期的減少傾向が続くこの時代は私立大学にとって危機的である。優秀な人材を求めることと出来るだけ多くの受験者を集めることは、今の時代には二律背反となる。何はともあれ経済的な理由の先行する私立大学としては、受験資格が他大学と同じことが多くの受験者を集める重要なポイントとなる。すなわち、生物を受験科目として指定していない大学がほとんどであることから、理系にとっては比較的点が取りやすいといわれる物理と化学の選択を意味し(化学は高校での履修率も一番高い)、生物をとらない学生の大量入学に繋がることになる。
 兵庫県にある、薬学系のある大学に問い合わせてみると、ここ数年の間に大学側は大きく姿勢を変え、そこでの教師の仕事は大変になったようである。1、2年における高校レベルの内容を含む理科や数学の教育、十分に理解できない学生に対する補習授業、卒業試験を前にした全体の洗いなおしのための講義とその補習授業、そのための度重なる模擬試験等を行い、各学年において進級不許可を含む厳しい進級指導を学生に行っている。また、レポートによる安易な単位認定も中止したという。このような大学側の姿勢は、学生にアルバイト漬けの生活を止めさせ、自分で勉強する時間を大幅に増加させ、そして授業へ足を運ばせる事になったと、関係者は述べている。
その結果、たとえば専門課程のある教授の教育義務は、前期だけで講義として90分授業を40回、朝10時半から夕方6時半までの実習指導が24日間となり、後期はそれから実習を除いただけだと言う。それらの上に、研究指導やセミナーが控えているのである。それ程までに大変な仕事になってもなおそれをやり得るのは、関係者によれば、確かに低い薬剤師の国家試験合格率では学生を集められないという背景があるにせよ、国家試験に合格するくらいの学力を最低限持つことが卒業のための明確な基準であると学生に認識させることの重要さを自覚しているからであると言う。また同時に、人命を預かる専門家を育てているとの自負も大きいようである。
 はたして国公立大学はこんな事をやり得ているのであろうか。なにもできない国公立大学であれば、民営化論もやむを得ないのかもしれない。
8.大阪大学がなすべきことは何か
 2つの答えがある。ひとつは、入学試験のやり方を変えることである。このことは高校教育に大きな影響を与え、そのレベルから問題を解決していく手だてにもなるが、このことについては別に議論することにしたい(「大阪大学の決f−2」)。
 もうひとつの明確な答えは、大学が明確な態度を示し、学生に厳しい姿勢で臨むことである。すなわち、今の入試方法を維持する限りにおいて、高校での不完全な履修歴を持つ入学者が今後も増加することは明らかなことから、そのような学生に対し、的確な教育指導体制をとることである。カリキュラムの再編成、補習授業、的確なガイダンス等やれることは限られている。何故に大学がそんなことをやらねばならぬのかとの問いには、要は、大学側が社会から付託されている「学生の教育」機能を全うしようという気があるかどうかだと答えるしかない。予算が必要であれば文部省に要求すればよいし、それが実現しない内は、総長決裁の費用を用いるなど便法はいくらでもあるように思われる。とりあえず、大学側がやるべきこと、大学が学生に要求する事を以下に列挙する。
1.大学側は、入学者の高校での履修歴を調査し、それに見合ったガイダンス、カリキュラムの再編成、必要に応じて補習授業を行える体制を整備する。
2.教官は、講義の最初の数回(約3回)において、講義の目的、内容をそれを受講する学生の専攻との関連において的確なガイダンスを行う。

3.大学側は、学生の顔のよく見える講義を行うために講義あたりの学生数を、今の3分の1程度の50名以下に抑える。
4.大学側は、講義室の設備を充実するために大幅な設備投資を行う。
5.大学側は、学生の勉学意欲を刺激し、それを支えるために図書館や福利厚生施設の大幅な整備と拡張を行う。
6.教官は、学生の質問や生活指導に当てるための決められた時間を用意する。
7.学生は、授業の80%以上に出席を求められる。あるいは授業に出席しなければならなくなるような、または自宅での勉強を要求されるような課題についてのレポート提出を要求される。
8.学生は、15分以上の遅刻では受講できない。
9.学生は、講義の最初数回(約3回)にわたって行われるオリエンテーションに出席することなく、その後の受講、単位認定を受けられない。
11.以上の事項について、大学側は「大阪大学創造教育研究センター」を中核として徹底的な検討を行う。また、それを支える下部組織を各学部に置く。以上の事項を行う3年前に大学側は、その姿勢と具体的な方針を社会と受験生に公表する義務を負う。
9.大阪大学が今考えなければならないこと
 「大阪大学創造教育研究センター」構想において私が書いたように、現代の大学の教官の大半は、教育者集団というより研究者集団である。教育者であるとしたら、それは現代科学のパラダイムに生きる研究者育成のための「教育者」である。研究者の育成は、研究機関でもある大学を支え、それを次世代に継続するために重要な事業であることはもちろんであるが、大阪大学に入学してくる学生のほとんどは研究者になるわけではないのである。しかし、社会で重要な役割を担う人材として育てなければならない者ばかりである。立花隆氏も主張するように、社会をまとめ、方向付けして進めていくのは、研究者・技術者としての才覚というより科学・技術はもとより人文社会学をきっちりと学習したゼネラリスト達であろう。したがって彼らをどのように育成するかをもう一度考え直さなければならないのでないか。それだけの人材として大学は入学を許可したのであるなら、大学側が充分な手を打たないのは税金の無駄遣いと、社会への裏切りと自覚すべきである。
 大学における研究の大切さは、「知」の蓄積の一過程としても、それを通しての人材の育成という意味からも、そして社会への研究業績の還元という意味からも明らかではある。しかし、「知」の探求過程がこれ程までに体制化し、広く行われるようになるとその独自性を主張することはきわめて困難となる。たとえば私は、マウスの発生過程における上皮組織の形態形成を研究対象にしている。いままでの研究では、それなりの創造性と独自性を世界に向かって主張し得ていると自負するが、よく似た研究を行うグループは世界に幾つかはあるのである。そして私が発見しなくとも、その内誰かが見つけだす、そんな確率の高い研究を多くの者が同時並行的にやっているのである。日進月歩といわれ、ボーダーレスとして進歩する科学の世界の裏側で、それほどの熱意を持った教育を受けられない何千人の学生が毎年卒業して行く。彼らは振り返るような大学も意識できず、また我々も彼らを振り返ることもできないのである。
 大学にいる人間は、自分の研究の重要性を声高に主張する前に、本来大学が果たすべき役割について、その在り方をもう少し真摯に反省する努力が必要なのではないか。初等中等教育や家庭教育を批判するのはその後で充分である。
10.新しい大阪大学の施策を社会に通知する
 ・章に述べたことは、書いてみれば些細なことも多い。しかし万事は些細なことからしか始まらないのである。そんな些細なことでも大学側が明確にして、学生側に強く求める場合には、大学側はそれを何年度の入学学生から適用するかをあらかじめ社会に通知し、募集要項に明記することが必要である。それを知って、それを重要と考える入学生に対して大阪大学は熱意を持って教育すればよいのである。大学側の強い方針は、今の若者に嫌われるであろう。しかし、そんなことをもはや恐れるのではなく、たとえそれによって競争率が下がったとしても、意欲を持って入学してくる学生が増えることをより重要と考えるように頭の切換を行うのである。18才人口の減少とともに何もしなくとも競争率は下がるのである。これまでの競争率低下を恐れる意識を、少なくとも国公立大学はいさぎよく捨てるべきである。
11.あとがき
 ここまで述べてきたことには、些細なことから大きな問題までいろいろとある。一方、大阪大学はいま重点化を着々と進行させている。行政改革が声高に叫ばれながら、その内実は寂しいのが本当であるとしたら、大学の「行政改革」である重点化も同様のことになっているのではないかと感じるはごく普通の感覚である。それも問題であるが、以下の文献に述べられているような理科教育の問題がさらに深化した場合には、大学や社会にとっては壊滅的な現象をもたらすことは目に見えている。
 これまで大阪大学は、日本はもとより世界の中の大阪大学として機能してきたと信じてよいのであろう。しかしこれからもそうであり続けようと志すのであれば、現実をしっかりと見据えた上で、大きな決断をしなければならない。そうして初めて大阪大学は、日本の中で新しい大学の拠点として独自の立場を築き、世界的な存在たる足場の再構築が可能となる。大阪大学白書の表題「地域に生き世界に伸びる」は、そのことを求めているはずである。そうしなければ、日本ではともかく世界に羽ばたくのはほとんど不可能であろうし、豊かな感性を持った科学技術立国を目指す日本は間違いなく沈没することになろう。いままさにそうなりかけている。
参考文献
1)文芸春秋(9月号)立花隆「知的亡国論」(立花のホームページにも掲載)
2)朝日新聞(11月28日、4面)松田良一「科学教育を揺るがす改訂指導要領」
3)日経新聞(1月18日、26面)「生物知らない生物系学生増加 理科の基礎教育必修化を」
4)サンデー毎日(2月8日)「生物を学ばない医大生急増」
5)文芸春秋(2月号、46頁)立花隆「私の東大論」
6)岩波「科学」(2月号、203頁)「日本の理科教育が危ない」
(この文書は、私自身の考える「大阪大学創造教育研究センター」構想の付属文書として1998年2月6日から書き始めた文書である)