長野マラソン、初フルマラソン挑戦でサブフォー達成!!!
−60歳台からでもフルマラソンは楽しめる!−
 やったー!!! ”!”マークがいくつあっても足りない。タイムは、公式の速報で3時間57分12秒、私の時計のネットタイムでは、3時間57分00秒でした。フルマラソン初挑戦でサブフォー達成でした。そして先日5月4日、待望の公式の記録証が届き,そのデータもふまえながら初フル挑戦という難行を振り返りたい。
 私は現在62歳、秋には63歳になって年が明ければ定年退職が待つ身である。いろいろなことがあって走り始めた私が、計14回のハーフマラソンのあとにフルマラソンへの挑戦を決めたのは1年ほど前であっただろうか(走りはじめのいきさつについては、雑誌「ランナーズ」2001年12月号、25ページ、「ターンオーバーを感じて走る」をご覧下さい)。初参加の京都シティハーフマラソンのレースで意外にも1時間42分台で走れ、よもやと思った1時間30分台が見えてきたことがその引き金であった。
 でも、ハーフの距離以上を一度に走ったことがないとか、ハーフの距離を走れば必ず足裏に水ぶくれ・血豆が出来てしまうことなど克服すべきことはいくらもあった。それまでして挑戦する理由はなんだったのだろうか?それはやはり、フルマラソンは長距離走の最高峰だろうと思うし、我々のレベルでは4時間、ときには5時間以上も走り続けなければならないという精神的スタミナが想像以上に厳しいということもあり、挑戦するに充分な価値があると考えたからである。また、初マラソンを完走し、それなりのタイムを出すことが出来れば、来年に迎える停年後の生活の送り方も変えることになるかもしれないと考えたことは確かである。
 幸い、毎月150キロ以上を走り続けることとシューズの改良もあって足裏の水ぶくれ問題は解決し、また、3月中旬の京都シティハーフマラソンの抽選に漏れたこともあって、充分な準備の元で長野オリンピック記念の長野マラソンに挑戦することになったのである。直前の1ヶ月には200キロ以上を走破し、禁煙にも成功して万全の状態で挑むことが可能となった(このホームページにある「“体質改善:減量、筋トレ、マラソンそして禁煙”」を参照)。
 4月13日(土曜日)の早朝高槻を発ち、横浜で娘の結婚式と披露宴に出席したあと、新幹線で東京に移動し、長野新幹線に乗り換えて長野に6時頃に到着した。ビッグハットでの登録に急ぎ、それをすませて長野駅そばのホテルに宿泊した。なんで娘の結婚式の翌日なんかにと首を傾げる向きもあったが、偶然そうなっただけと言うしかなかった。どちらも私にとっては大切なことだったのである。
 翌14日は前日同様に4時半には起き、5時に特別の朝食サンドウィッチを受け取り、とりあえず朝食を済ませた。高槻でのレースの時のように朝食でお餅をたらふく食べてレースに挑むこともかなわず、サンドウィッチプラス柏餅とおにぎりで代用し、不足分をデキストリン(グリコーゲンやデンプンなどの吸収をよくしたもの、商標"Carboshotz ")で補うこととなった。
 朝6時過ぎのシャトルバスに乗り、約1時間弱かけて湯田中方面山之内町(長野オリンピック、スキー会場のあった町)に移動し、それから約2時間レース開始に向けて調整に精を出すこととなった。大きな道路を止めてスタート前のウオーミングアップ場にし、トイレも十分に用意されていて実にうまい運営がされていた。出場選手は5,700名。私ははじめて登記登録選手として出場した。そのため、スタート位置はいわゆる招待選手の後ろになり、スタート板通過までわたしの時計で12秒(実際はわずか11秒でした)しからなかった。以降、記憶をたどり、間違いを公式記録証で補正しながら初フルマラソンという難行を振り返りたいと思う。
 このコースの難しいところは、世界一といわれる最初の長い下り坂と千曲川堤防上の強い風、最後の4キロあたりにあるだらだらした長い上り坂だと言われている。確かに最初の下りは強烈だった(上図)。10キロで150m以上下る坂で、皆さんすごいスピードで走っていた。フルマラソン初挑戦の私にはスタート前から、参加する選手はみんな専門家に見え、最後まで行けるかどうかと不安いっぱいで、そんなスピードを見ると恐ろしい限りでした。あまりスピードを出しすぎると後で脚に来ると考えていたので、最初の1キロが4分39秒というペースを見て、さらにペースを少しダウンさせ、確か5キロで24分台に落ち着かせようとした(実際にはこれより1分以上早かった。下記参照)。確か10キロでは49分台だったと思うが、あまり正確とは言えない(本当は48分32秒でした)。このようにスプリットタイムを覚えようとしても覚えることの多さに、ハーフとは比べものにならない距離の長さをはじめて実感した。
ここで公式記録をひとまとめにして見てみよう(ネットタイム)。
最初の5キロ    23分15秒 4分39秒/キロ
5キロから10キロ  25分17秒 5分03秒/キロ
10キロから15キロ 26分42秒 5分20秒/キロ
15キロから20キロ 27分16秒 5分27秒/キロ
中間点    1時間48分34秒
20キロから25キロ 27分41秒 5分32秒/キロ
25キロから30キロ 29分04秒 5分49秒/キロ
30キロから35キロ 30分31秒 6分06秒/キロ
35キロから40キロ 32分31秒 6分30秒/キロ
40キロからゴール  14分44秒 6分40秒/キロ
 15キロくらいから少しペースが落ちたが、それほど心配することはなく、中間点でのタイムは1時間48分30秒あたりだったと思う(実際には1時間48分34秒)。ハーフマラソンのタイムといっても別におかしくはないタイムでしたが、しばらく前に大阪千里万博周回道路でのトレーニングで、ほとんどそれと同じタイムでも32キロまで行けたことがわかっていたので、決してオーバーペースではないことは確信していた。とにかく、私が走った最も長い距離の32キロまで行き着くことが大事で、あとは何とかなる、そこから先は気力の勝負と確信していた。注: 文字用の領域がありません!
 その中間点以降で何を一番心配していたかと言えば、それはガス欠でした。ですから、娘に入手して貰ったCarboshotzを的確にとることを心がけた。真後ろにポケットのあるナイキのランパンをはいていましたので、そこに一袋70キロカロリーの小さい袋(25g)4個と一袋130キロカロリーの大きい袋(50g)を3袋の計7袋を入れて(少し重かったがポケットの位置が身体の中心線にあるので重さを感じにくいことと、後々のためと我慢)スタートした。5キロ地点の給水所から取り始める計画だったが、5キロは最初の勢いに負けてパスし、次の10キロから確実に摂り始めた。どこかで一度忘れたが、大きい袋3袋と小さい袋2袋は確実に摂取し、合計540キロカロリーを補給できた。純粋に物理的には2,700キロカロリーくらいは最低必要だが、それの約20%は補給したことになる。これに加えて後半にはバナナを小さく切ったもの二切れを補給した。もちろんスタート前にはこれまでの経験で効果的だと感じていた分岐鎖アミノ酸や有名な某社の飲料も飲み、フルマラソンという消耗戦に備えた。
 5キロ毎のキロあたりのタイムでも分かるように(左図)、スピードは徐々に落ちてはいても30キロを過ぎるあたりからかなりきつくなってきた。そのあたりでキロあたり6分以上になっていたことに気づき、急いで修正したところ5分台にもどすことができたので、まだ大丈夫と思い直し、頑張ることにした。終盤の37キロ表示はうれしかったの一言だった。というのは、あと5キロという表示がすぐ来ると思ったからである。そのあたりからは大変であった。あと5キロという表示までには200メートル弱しかないはずが、それがすごく長く感じられた。おまけに、そこから松代大橋という長い、少しアーチ形になった?橋があり、その上り坂が苦痛だった。そこに差しかかる前あたりから私のクラスのランナーは半分くらいが歩いており、その橋の上り坂では7割は歩いていたと実感した。私は絶対に歩かない、と心に決めて走った。あと5キロ時点で4時間までには確か35分ほどは残っていたはずで、「大丈夫、大丈夫」と自分に言い聞かせて走っていたが、あまりの脚の重さに本当に参った。
 このあたりの状況を記録証のデータで見ると、上のスプリットタイムの図から見ても分かるように、30キロあたりから平均キロ当たりタイムが6分を超え、特に最後の4、5キロでは6分30秒以上かかっていることが分かる。見えてきたオリンピックスタジアムがなかなか近づいてこない。やっとの思いで取り付け道路からスタジアムに入ると、グリーンのラバーがしかれており、軟らかいその上を夢のように走ってやっとゴールに到着した。自分の時計では、3時間57分00秒だった(正式のネットタイムは、1時間57分01秒でした)。しかし、上に書いたように絶対に歩かずに走りきろうとの決意が、登記登録選手の中での順位をじりじりと上げていたことにつながったことがよく分かり、それは下の図で示されている。
 登記登録選手の男子の総数は670名でした。わたしは最初から422位辺りを走っていたようですが、この順位は中間点までほとんど変動なく、全体の流れの中で冷静に走れていたことを伺わせます。そう言えば、わたしはレース前にNHKへの意気込みメッセージとして下のようなメッセージを送っており、冷静に走ることを心がけていた。その冷静さのお陰で、最後には380位にまで順位を上げることが出来、大目標の4時間を切ることが出来た。なお、幾つかの応援メッセージもいただきました。強制したような気もしましたが、それはともかく、応援有り難うございました。