長嶋監督留任で分かってくることは?
 長嶋監督留任がしばらく前に大きく報道された。それは大歓迎であるとの報道が全国に流れ、マスコミもファンも大喜びという奇妙な図式が成り立っているようである。一口に言って無責任体制なる雰囲気の垂れ流しである。

 ここ数年の間の金に糸目を付けぬ大補強の結果、巨人は一度は優勝したが、大補強の成果ともいえず、一体全体長嶋監督は何をしてきたのかと言いたいほどである。私がすでに「巨人の野球から見た私達の姿」に書いたように、彼が若い有能な選手を育てようとしてチーム編成を行ってきたわけでは決してない。それは補強の仕方を見れば一目瞭然である。育ったとすれば、それは彼ら自身の努力によってであり、井上選手や福王選手などの多くの有能な選手達がその才能を発揮することなくチームを去ることになる。木田や吉岡のように比較的若い内にチームを出ることが出来た者は幸せである。一体いまの巨人を作ってしまった責任はどこにあるのだろうか。その事を明らかにする責任は私にはないので、ただ、それから分かることだけを書くことにしよう。
 一方、今年のW杯に出場したサッカー日本チームの責任をとらされたのは一体誰だったのだろうか。前岡田監督はW杯への出場を賭けた戦いに勝ち、日本をフランスへ連れていってくれた。しかし、そこでの戦いは予想通り厳しいものであり、引き分けすら得ることが出来なかったのである。これまで何度も出場しながら、未だに勝つことの出来ない韓国の苦しみを身を持って味わうことになった。彼は、当然のように監督の職を辞し、いまはフリーの身である。W杯後の読売新聞に、6月21日フランス発、伊藤高昭記者の記事があった。「プロの監督として、一次リーグを突破できなかったら、責任をとる」との岡田監督の発言を、「当然の判断だろう。プロの監督として、結果に責任を持つのは当たり前で、驚くことは何もない」との報道である。何とも突き放した書き方であるが、同じ読売新聞は、しかし、長嶋監督留任になんの疑問も挟まないのである。

 この2つの出来事から伺うことができるのは次の3点であろう。まず、日本の野球の監督はプロの監督とはみなされてはいないということであり、失敗の責任をとらなくて良いということである。さらに、マスコミの報道には明らかに一貫性が欠けているという事実である。確かに、野球は世界のスポーツではなく、サッカーは世界のスポーツである。したがって、サッカーの世界の基準はグローバル・スタンダードと呼ばれる。しかし、野球はそうでないので、どこの基準に依拠しても良いが、これまでの経緯を考えると、やはり、日本の基準に沿っていると言わざるを得ない。それは野球のやり方にも現れ、日本では「野球」、アメリカでは「ベースボール」と呼ばれる。

 優勝するということに失敗した責任であるが、ただ優勝しなかったから失敗だったといっているわけではない。あれだけの補強をして、あれだけの方針変更を何度もして(毎年、攻撃のチームにするとか、いや守りをきちっとしてとか)、結果若手の教育をせず、結果として優勝に失敗したのである。それ故に、責任をとる必要は十分すぎるほどあると思う。もともと、チームを何年かかけて作り上げるというような方針ではなかったのである。では、責任は誰がとったのか。それはコーチ陣でしかない。それはそれで十分な責任があった。特に、投手起用、特に中継ぎ陣のそれに大きな失敗が山のようにあったと断言できる。38年ぶりのリーグ優勝、日本シリーズ制覇を成し遂げたハマの権藤監督の、良く整理された、投手の気持ちを理解した起用法とは雲泥の差があった。今回のコーチ陣の入れ替えは、よく言われる「とかげのしっぽ切り」である。巨人というチームは、どこまで堕落したのかと思う。
 おまけに、新しい原総合コーチ、水野ブルペンピッチングコーチの起用は、コーチとしてなんの教育も施されていないまったくの素人である。言うべき言葉もない。
 日本のプロ野球の監督は、お金は別としてプロとはみなされてはいないというのは、グローバル・スタンダードからみて事実がそうなっているので、これ以上言うことはない。ただ、このようなことは日本中がそうであるからなんの違和感もないというのは確かである。たとえば、銀行の経営に失敗したとしても、その責任をとるのを嫌がって、公的資金の投入に踏み切れない経営者群の存在、何かの不祥事で政治責任をとって役職を辞したとしても、相変わらず政治家にとどまり、また彼らを選出し続ける有権者達の存在など枚挙にいとまがない。グローバル・スタンダードに日本の基準が全て合致しなければいけないなんて事を言うつもりはさらさらない。その必要も原則的にはない。ただし、日本の経済は、世界のグローバル・スタンダードの隙間をついて機能してきたのであり、そこから大きな利益を得てきたという事実はある。したがって、それを維持しようとすれば、それが大きな障壁になるだけである。そんなお金はわれわれ日本人はもはや要らない、新しい生活習慣を立て直すのだという決意があれば日本独自の基準は許されるのであろう。

 日本のマスコミについても同様である。問題は、我々がどのような選択をしようとしているかだけが問われているのである。ドイツでは「緑の党」のような新しい政治家集団が政権の一翼を担うようになってきている。別に、長嶋監督が留任しようとそんなことはどうでも良いのである。ただ、長嶋監督の留任に大喜びする一方で、グローバル・スタンダードを求めるのは、明らかに矛盾であると言いたいのである。それでは岡田前監督が惨めである。