“「基礎セミナー」を観察する”
−中間報告−
 今回の「共通教育だより」の発行に際し、全学共通教育機構の援助を受け、私が個人的に興味をもって調査している授業科目「基礎セミナー」について何か報告をするようにと、編集委員から依頼があった。実は、以下に述べる理由によって、その膨大な資料をやっと整理して、さあこれからどのように料理するかを考えている段階であり、まともな報告書の書ける段階ではない。しかし、共通教育として、また大学教育を担当する教官の問題として今伝えておいた方がよいと思うこともあり、この小文を書かせていただいた。しかし読んでいただければわかる通り、問題提起に対していかにも長い“はじめに”が異常である。それにも関わらずそれを取り除くことが出来ないのは、共通教育における「基礎セミナー」の位置づけ、受講する学生の多様性とそれへの教官の対応など、未整理の課題が山積みしている現状への不安の現れとお考えいただきたい。また、客観的なデータの不足から、私の主観的な意見の多いことを最初にお断りしておく。

1.はじめに
 近年、若者の行動がマスメディアの注目を集めることが多い。阪神・淡路大地震の際に見られたボランティア活動をする大勢の若者への高い評価、いじめに見られる陰湿な関係、そしてまた新興宗教への積極的な参加などである。これらはいずれも今後の日本や世界を担うべき若者を表現する現象である。これを若者の、あるいは大半の日本人の持つ同じ特性の異なる表現と考えることもできるし、異なる特性を持つ人間のそれなりの表現であるとも言え、いろいろな議論が可能であろう。
 しかし、若者の過半数が大学に進学する事態を迎え、大学は、また大学教育に携わる人間としてはこれらの現象に無関心でいるわけにはいかない。一体、大学はこのこととどのような関係にあるのであろうか。この設問に答えるためには、少し整理が必要である。たとえば、大学は教育機関としてどのように機能し得ているか、そのことをたどっていくと、日本の初等中等教育・高等教育の中にどのような教育が存在しているのだろうかとの疑問が涌いてくる。また大学では、研究者としての評価の方が教育者としてのそれよりもはるかに重い現実をみると、大学は研究の延長線上においてのみ教育を考えているのではないかとの疑問が生じる。これらは整理することにはならず、問題が芋づる式にでてきてしまっている。大学院重点化が進む大学の教官の立場として常に問われる問題である。
 このような複雑な状況の中でも、なお、大学がしなければならない事、またできる事があるのではないかとの想いが私にはある。それは、何か立派な事をしようというのではなく、何かを学生と一緒に行なおうとするとき、それが授業ということでもよいが、参加する学生について知ることが最初に行う大事なことではないかと考えている。多数の多様な価値観を持った学生を受け入れる本学においても、入学して来る教育対象である学生の把握そのものが必須であろうと思うのである。それがなければ、カリキュラムの大改革も机上の空論であろう。はたして大阪大学で、入学してくる学生の意識調査を学生に意識させることなく組織的に行い、その成果を利用した機会があったのだろうか。もし大阪大学が教育機関であると自負するのであれば、それはなくてはならない重要なことである、これが私が今回調査を思い立った最大の動機であった(なお、今回の「共通教育だより」に新しいカリキュラムに対してのアンケート調査が掲載されていることをお断りしておく)。
 
2.「基礎セミナー」の目標
 基礎セミナーは平成6年度の全学共通教育機構発足に際して、これまでとは全く異なる授業科目として設定されたもので、学生のさまざまな状況に対応できるようにと意図された意欲的なものであったと理解している。平成7年度の「全学共通教育科目授業概要」の基礎セミナーの項目(17ページ)には次のような目標が定められている。少し長いが以下に引用したい。
 「大学に入学して、どのように勉学を進めて行くか思い悩むことはないだろうか。大学に入学する動機は一人一人違うだろうが、各自の抱いている興味を発展させながら、主体的に物を考え、学問への意欲を育てること、ひいては学問と人生や社会との関わりについて思索を深めることは、とても重要なことである。基礎セミナーは少人数の学生が教官を囲んで、一つのテーマについて質疑・応答・討論をする対話形式で進める授業科目である。基礎セミナーでは、学問の先達である教官と直に接しながら、教官の提示するテーマを通じて教官の研究分野や学問への態度を学ぶとともに、人生の先輩として教官の人生観・世界観などを摂取する事も可能である」。
 この授業は、学生の自由な選択が可能なほとんどただ一つのものであることから、この選択の中に、入学してくる学生の状況が的確に表現されるのではないかとの期待が私にはあったのである。

3.調査方法と問題点
 入学した学生は第Iから第IIIセメスターの間に開講される基礎セミナーについて第1希望から第3希望までの「基礎セミナー履修希望届」を提出し、その内から担当教官は授業可能な人数を選択し、「基礎セミナー受講確定リスト」を通して学生に周知させることになっている。
調査はまず平成6、7年度について、教務掛に教官から返却された未採用分の学生の「希望届」カードと教官の提出した「確定リスト」のコピーを受け取り、学生一人ずつの学部学科の所属、どの基礎セミナーを希望したかを仕分けることとした。これにはいろいろな問題が発生した。
 1.まず第3希望はこの調査から外したが、カードは1万枚にものぼり、また「希望届」、「確定リスト」ともに学生の所属学科(専攻)の記載されていないものが多数あることであった。
 2.さらに困難なことは、カードを預かった教官が未採用分のカードを必ずしも教務掛に返却していないことであった。このことはこの調査に曖昧さを残すことになった。
 3.さらに年度別に仕分けようとすると、かなりの数のセミナーには平成6、7年度入学者が混在して入っており、その仕訳に手間取ることが多かった。
これらの作業に膨大な時間と労力が必要なことは全く予想外のことであった。このような問題が発生した根拠は、基礎セミナーに対する学生の反応を、学生の特性を判断する資料にすることを誰も考えてはいなかったことに起因している。この点を平成8年度以降どのように取り扱うか検討課題となろう。

4.開催されている「基礎セミナー」について
 上に述べたような目標に向けて開催されているセミナーがどんなものであるかは重要である。平成7年度に開催されているセミナー数は163である。そのシラバス(「授業概要」)を学生が読んで「理系」であるか「文系」であるかの判断を、私が学生に代わって行った結果が表1である。「共通」となっているのは、明らかに社会との接点を目指していると判断したものであり、表の計算からは除外した。

 
          
表1.セミナーの種類別と教官数・学生数の関係
 

文系

理系

共通

セミナー数

23

127

13(注3)

教官総数(注1,2)

286

1,052

-

教官数/セミナー

12.4

8.3

-

セミナー担当教官数/総教官数

8.0%

12.1%

-

入学者総数(注1)

810

2,079

-

学生数/セミナー

35.2

16.4

-

 注1)平成6年度入学生用に開講されたものに対する参加。

6.「基礎セミナー」に何を望むか
 「2.目標」に述べたように、この授業にはなんとか現状を打開したいとの意欲が感じられる。現在の大学入学システムの渦中で自らのというよりは、周囲の状況の中で決断をしなければならないことの多かった新入学生が、自らの興味をさらに掘り下げ、また自らの決断と再度向き合う機会として基礎セミナーを位置づけることができるであろう。また、「高度科学技術社会」といわれる中に生きる人間として、多様といわれる価値観の再検討をする場ともいえるであろう。さらに、この無用に忙しく、ゆっくりと他人と話をする機会を持てなかった新入生をリフレッシュし、知的好奇心の再構築をする機会を共にするのは、現代の大学教育の大きな柱でなければならないように思われる。このような意味から考えれば、希望を持って入学する学生を、余裕を持って収容することのできる数の「基礎セミナー」が開講されるべきと考えられる。数にすればおよそ300は必要であろう。
 しかし上にも述べたごとく、このセミナーの目標は単純に文系学生は「文系」の、理系は「理系」という対応ではなく、かなりの学生のクロスオーバーを期待していることと理解できる。新しいカリキュラムの看板のひとつである「主題別科目」でもこのことは主張されており、これは総合大学として機能したいとする大阪大学の主張と考えられる。従ってそれに対応できるような基礎セミナーの配置が必要であろう。

7.「基礎セミナー」の問題点
 これまでに述べたことから、大きく分けて2つの問題がある。ひとつは、セミナーの数と内容である。上にも述べたように、少人数での教官と学生の質疑・応答・討論が必須であるとすれば、まずおよそ300近い数のセミナーを用意することが必要になる。現状はおよそ160であるから、ほぼ同数のセミナーを新たに開講することが要求される。
 また、文系の学生が「理系」の、理系の学生が「文系」のセミナーに参加する、いわゆるクロスオーバーを期待し、もしそれを単純に仮に30%と考えて計算すると、理系の学生のために「文系」あるいは「共通」のセミナーをおよそ60ほど用意する必要に迫られる。逆に計算すれば、文系の学生のための「理系」または「共通」はおよそ20必要になる。これを念頭にいれて概算すると、「文系」(「共通」を含む)を100、「理系」(「共通」を含む)を200用意するのが理想的と言えよう。
 表1からもわかるように、文系教官の数は全体の21%である。しかし、今回の「基礎セミナー」の開設を、大阪大学の新しい新入生教育体制の柱とするのなら、新規の「基礎セミナー」の開講を期待したい。文系教官の内35%の教官が参加すればそれは達成できることなのである。また、今回の新しい試みに対して、付置研究所教官の参加が大きな力となっているが、文系との接点を持ったような基礎セミナーの開設を含めてさらなる理系教官の努力が期待される。
 以上のような数が要求される理由はもうひとつある。それは表2、3でも明らかなように、期待をもって入ってきた学生が、第Iセメスターで40%以下しかセミナーに参加できないのである。その結果であろうか、第I、IIセメスターでの応募には諦めもかいま見える。第2希望を提出する学生が圧倒的に少なくなっている。最高学府といわれる大学に入ったばかりの学生に失望感を与えるのは最悪である。また、あまりにも多い希望者を見て、セミナーとしては多すぎる数の学生を許可した結果、学生と十分に討論することが出来なくなった経験を私も持っている。従って私は、第I、IIセメスターにほとんどのセミナーを集中的に実施し、さらにそれを発展させたい学生には第IIIセメスターにも履修してもらうことを提案したい。

8.教官にとって「基礎セミナー」とは?
 いろいろな議論はあるにせよ、「基礎セミナー」を学生諸君にとって有意義なものとする事は、上に提案したようにまず量的に改善することによって可能であろう。しかし、このセミナーは教官にとっては何であろうか?実感として教育とは、学生と教官の相互批判の中から生まれると思う。それが学生・教官の両方を育てる。従って相互批判関係の構築は学生の義務でもあり、教官の義務でもある。対等に語ろうとする学生の存在なしでは、教官も育たないのではないだろうか。「共通教育だより」第1号で理学部数学科の井川満教授は次のように書いている。「・・・学生諸君の、講義への積極的参加が更に不可欠であると私は思う。この点に関しては、私はあまり楽観できないのである。教官にとって恐い学生がだんだんと居なくなってきたからである」。少人数によるセミナーの中ではじめて、学生は本心を話してくれるかもしれないのである。時にはそれは私達の価値観にとって衝撃的であり、また新しい発想を生み出す可能性も高い。阪大キャンパスの短いが美しいプロムナードを歩く大勢の学生の中に、無愛想を装って通り過ぎず、笑顔で話しかけてくれる学生が多くなることを夢見ている。なぜなら、私達教官と呼ばれる人間も、新入生諸君と同じ社会の中で、同じような悩みを持ち、無関心・無愛想に生きたい衝動の中にいるのであるから。

謝辞:今回の調査に援助して下さいました全学共通教育機構事務部、教務部長井畑敏一教授にお礼を申し上げるとともに、この面倒な調査に協力して下さいました稲角倫子さんに心から感謝致します。
                (「共通教育だより」、No. 2, 12ページ、1996)