「戦争の記録」と私
はじめに
 以下は、今年2008年の夏、NHKのあるテレビ番組を見て、思うところがあって家族全員宛てに書いた手紙の一部である。

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         「共有しておきたい、あの写真の衝撃」

 異常に暑いこの夏2008年8月7日、思いがけず元アメリカ軍カメラマン、ジョー・オダネル軍曹が撮影した「焼き場に立つ少年」についての興味深い番組(「NHKスペシャル」、“解かれた封印〜米軍カメラマンが見たNAGASAKI〜”)を見ることになり、幸いそれをDVDに記録することができた。そしてこの際、その写真をはじめて見たときに受けた衝撃をせめて家族の皆さんと共有しておきたいと思い、メモをDVDに付けて家族の皆さん一人一人にお送りすることにした。

 私は、私が育った田舎の実家が薬局を営む傍ら写真屋もやっていたこともあり、小さいときから写真を撮ったりフィルムを現像したり写真を引き伸ばしたりすることがなんとなく好きな子どもだった(仕事を手伝わされるのは嫌だったが)。そんなこともあり大人になってからも写真展を見に行きたいと思うことが度々あった。今回話題になったその写真をはじめて見たのは1999年だったように思う。それは朝日新聞社が創刊120周年記念として開いた「写真が語る20世紀 目撃者」の写真展であった。その写真の詳しい解説はDVDにまかせるとしてもそれは恐ろしいほど衝撃的であり、わたしの現役生活を総括する最終講義に思わずそれを受講者に見てもらうことになった。ただ、ここではそれを皆さんと共有しておきたい理由だけを書いておきたい。

 さて、私も戦争は嫌いであったしいまでも嫌いである。だから、1960年代から1970年代にかけて名古屋の大学生として、あるいは大学職員としてアメリカとの軍事同盟やヴェトナム戦争反対などを叫んで街頭デモに打って出たことは当然であった。それはそれで良かったのであるが、私の考え方としては大学の中でやるべきことをきちんとやることがまず重要であると考えるようになっていった。そのことを実行に移したことが研究室やそのまわりで大きな波紋を呼ぶこととなり、結局のところそのことで名古屋での私の居場所を失うこととなり、家族のみんなにも大きな影響を与えることにもなった。でも、世の中面白いもので「捨てる神あれば拾う神あり」で大阪の大学が私を拾うことになった。この過程に私は全く後悔はなく、むしろその過程で私が得たものは失ったものに比べて遙かに大きかったといまでも確信している。
                 
(中略)

 大阪の大学での最後の講義(2003年3月)、最終講義で、生物学を専攻してきた私としては場違いと思われたかもしれないが、私がこれまででもっとも衝撃を受けた写真、「焼き場に立つ少年」を皆さんにお見せした。私の中では、私がやってきた諸々のことの延長線上にはあの写真を感じる感受性がそこにおられた多くの方々に醸成されているはずとの意識があったのである。私たち一人一人が社会的に表だってできることはたかがしれている。最低限しなければいけないことは、あのような写真を感じる感受性を自分の中に育てておくことなのであろう。そのためにはやはり最低限自分の仕事や家庭を必死になってきちんとしたものに構築することに尽きる。不必要に先送りせず、それに立ち向かうのである。あるいは、必要なら新しい仕事へチャレンジするのである。それらに取り組むことなくしてはなにも生まれはしないであろう。もし、そんなことを、つまり正しいことをして食えなくなるのであればそのときに考えればよい。この世の中、誰も放ってはおかないもので、私の場合はまさにその通りであった。私のやってきたことが十分でなかったことを棚上げしてでもそう言いたいのである。

 私は最終講義の時に、その写真とともにレイチェル・カーソンの書いた美しい本「センス・オブ・ワンダー」(上遠恵子訳、新潮社)の話をしました。その本の23ページにはつぎのように書かれている。「もしもわたしが、すべての子供の成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない『センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性』を授けてほしいと頼むでしょう。この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです」。わたしが上に述べた感受性(あの写真を感じること)とは、レイチェル・カーソンの言うような「センス・オブ・ワンダー」のことである。彼女はそれを得るには自然から遠ざからないことだと述べているが、わたしにはそれとともに仕事や家庭から遠ざからないことが必要だと思う。彼女も、彼女の経歴から判断すると、わたしと同じことを考えていたはずである。

 結局、そんな感受性はあらゆることの基礎であり、私たちがなすべきことはそれを自分自身や家族の中に醸成するサイクルを作ることに尽きるのだと、わたしには思える。それは別の言葉で言えば好奇心をはぐくむことと同じことでもあろう。わたしは皆さんとあの写真から受ける衝撃を共有したいと強く思う。共有すること、それこそが小さいが確かな“反戦運動”であろう。皇后陛下も宮内庁のホームページにあの写真から強い衝撃を受けたことを書かれているようである。きっと、心にある反戦の意思を表明しているのであろう。皆さんにはそんなことの基礎となる感受性、「センス・オブ・ワンダー」をこれからも日々の生活の中で醸成しつづけてほしい。そこで大切なことは、自分が生活する小さな社会の中での自己保身だけはなにがあっても避けていただきたい。そんなことをしていては「センス・オブ・ワンダー」は自分のものには決してならないであろうから。

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「科学技術論」と「化学技術論」
 1974年(昭和49年)名古屋の大学で助教授(いまでいう准教授)になったとき、教授会に認められればであるが、私には学生に講義をする権利と義務が発生した。そこで私は自分の専門である生化学はもちろんであるが、それ以外にも学生達と様々な問題を議論できる場としての新しいタイプの講義を開きたいと考えていた。それを共に議論してくださったのは放射化学を専門とし、原子力発電所やさまざまな社会問題にも深い洞察力をお持ちであった古川路明氏であった。そんな古川氏と相談し、決めた講義名は「科学技術論」であった。それは当該学科の会議でも認められ、私たちは新年度からの開講を心待ちにしていた。

 新年度のカリキュラムを見て私たち二人は唖然とした。講義名が「科学技術論」ではなく「化学技術論」となっていたのである。私たち二人は助教授で教授会には出席していなかったため、そんな講義名になっていたことなど全く知らなかったのである。どうしてそうなったのかは明らかではないが、講義の内容を狭い範囲に限定しようとした当時の社会の意図が感じられた。しかし私たちにとってそれはどうでも良いことで、様々な問題を話題とし、広く学生達と議論することができればそれで良かったのであり、それを思うままに実行した。

 その過程の中、私たちは学生から思わぬ厳しい批判を被ることになったのである。それは、私たちが属していた学科の状況を議論しようとしたとき、私たちがそれまでの学科の歴史についてなんの資料も持ち合わせていないことについてであった。学生達の言い分は、“なにかをしようとするときに一番大事なことは、それまでどうであったかの歴史の反省から始まるのではないか?”ということであった。

 この批判は、この講義を担当した数年間の内で最も私には衝撃的であった。それ以来、私はできるだけ自分の考えは紙に書き、保存するようになったのである。大阪に移ってからもそうであった。そして自分のホームページを作れるようになってからは、当時の文書を出すと共に、批判を恐れず積極的に自分の考えをオープンすることにしたのである。今回の文書の最初に掲載した家族への手紙も、下に記す「戦争の記録」のことについてもその時代の延長に他ならないのである。
「戦争の記録」について
 NHKは、特に昨年より非常に積極的に昭和の時代の15年間にわたる戦争の記録に乗りだしている。それはひとえに戦争体験者が老齢化し、それによって戦争体験が埋没することを恐れてのことである。最近、その番組の放映の時、戦争を知らない世代が63歳になったと語られている。それと同様のことが一昨年読売新聞社によって行われた。それは、労作「検証 戦争責任I、II」(中央公論社)の刊行である。特にこの「戦争責任」を読むと、そこに書かれていることのほとんどを、今年で69歳(敗戦時6歳)になる私は知らなかったのである。

 NHKや読売新聞のこれらの行動は、歴史を総括する資料を提供し、かつそれらを後世に残そうとする試みであろう。そんな大それたことはできなくとも、私にできることがあるかと自問したとき、それはよく似たことを家族に、そして私のホームページを読んでくださる方々に伝えることだと思うようになった。そして昨年からNHKや民放が放映する悲惨な歴史記録の番組を録画し、できるだけまとめてDVDに録画し直して保存するようにしたのである。それが以下にまとめる「戦争の記録」である。
「戦争の記録」のタイトル
 NHKや民放が放映し、それを私が録画しDVD化したタイトルは以下の通りである。

「戦争の記録(1)」・・「日中戦争 なぜ戦争は拡大したのか」(74分)
          ・・「日中戦争〜兵士は戦場で何を見たのか〜」(110分)

「戦争の記録(2)」・・「A級戦犯は何を語ったのか〜東京裁判・尋問調書より〜」(74分)
          ・・「パール判事は何を問いかけたのか〜東京裁判・知られざる
             攻防〜」(54分)

「戦争の記録(3)」・・「裁かれなかった毒ガス作戦〜アメリカはなぜ免責したのか〜」(109分)
          ・・「鬼太郎が見た玉砕〜水木しげるの戦争〜」(89分)

「戦争の記録(4)」・・「硫黄島 玉砕戦生還者61年目の証言」(54分)
          ・・「カウラの大脱走」(110分)

「戦争の記録(5)」・・「取り残された民衆〜元関東軍兵士と開拓団家族の証言〜」
            (110分)
          ・・「地獄を見たから生きてこられた〜満蒙開拓団の戦後〜」(110分)

「戦争の記録(6)」・・「マニラ市街戦〜死者12万人 焦土への1ヶ月〜」(110分)

「戦争の記録(7)」・・「西部ニューギニア・見捨てられた戦場」(43分)
          ・・「マリアナ沖海戦〜鈴鹿海軍航空隊〜」(43分)
          ・・「北部ビルマ 密林に倒れた最強部隊」(43分)

「戦争の記録(8)」・・「ビルマ退却戦の悲闘・敦賀歩兵第119連隊」(43分)
          ・・「中国大陸打通苦しみの行軍1500キロ」(43分)
          ・・「フィリピン最後の攻防 極限の持久戦」(43分)
          ・・「満蒙国境 知らされなかった終戦」(43分)」

「戦争の記録(9)」・・「引き裂かれた村〜日米戦の舞台・フィリッピン」(43分)
          ・・「外交の信念 時流に散る〜宰相 広田弘毅」(42分)

「戦争の記録(10)」・・「日中国交正常化」(43分)
          ・・「決断の握手〜理解と誤解の日中30年秘史〜」(103分、BS-i)

「戦争の記録(11)」・・「解かれた封印〜米軍カメラマンが見たNAGASAKI〜」(49分)

「戦争の記録(12)」・・ BBC放送製作 アウシュビッツ5回シリーズ(1)大量虐殺への道、
外側広筋             (2)死の工場、(3)収容所の番人たち、
            (4)加速する殺戮、(5)解放と復讐(220分)

「戦争の記録(13)」・・「こうして村人は戦場へ行った〜滋賀県旧大郷村 徴兵記録〜」(89分)
          ・・「BC級戦犯 獄窓からの声」(109分)

「戦争の記録(14)」・・(証言記録 兵士たちの戦争4編)「インパール作戦・補給なきコヒマ
             の苦闘〜新潟県高田・陸軍歩兵第58連隊〜」
          ・・「フィリピン・レイテ島 誤報が生んだ決戦〜陸軍第1師団〜」
          ・・「ガダルカナル 繰り返された白兵突撃」
膝蓋骨           ・・「沖縄戦 住民を巻き込んだ悲劇の戦場〜山形県・歩兵第32連隊〜」

「戦争の記録(15)」・・(証言記録 兵士たちの戦争3編)「ペリリュー島 終わりなき持久戦」
            (43分)
          ・・「ニューギニア、ビアク島 幻の絶対国防圏」(43分)
          ・・「フィリピン 絶望の市街戦〜マニラ海軍防衛隊〜」(43分)
          ・・(NHKスペシャル)「果てなき消耗戦 証言記録 レイテ決戦」
            (59分)

「戦争の記録(16)」・・「遺された声〜ラジオが伝えた太平洋戦争〜」(分)
          ・・「調査報告 日本軍と阿片」(分)

「戦争の記録(17)」・・「玉音」(予定)
          ・・「玉音」(予定)など

 今後も続く予定
記録することの難しさ
 記録することは本当に難しいとはいまになっても思うことである。そのことに気づかされたあの時以来、私自身なにほどのことができたのかと思う日々であり、だからせめて、2011年まで続けると言明しているNHKの放映する証言記録などを個人的に記録してゆきたい。そして、そんな記録を見たいといわれる方々にはできる限りの手助けをしたいと思っている。また、学校でもまともに教えない現在、将来的にも貴重な資料になるとも感じている。

 それにしても日本人は、あるいは近代以降日本に育った人間は、歴史的事柄を記載し記録することが本当に下手である。それを記録しなければならないという意識が全くないのであろうか。あるいは記録は抹殺されるべきものと思われているのであろうか。そんなことが日常的にしばしば報道されている。それに比べて江戸時代に日本を訪れた外国人ですら、きわめて詳細な記録を残していることにはただただ驚くしかない。今回のN HKなどの放映の元になっている記録の多くは外国に残されているもののようである。特にアメリカ公文書館などが圧倒的な寄与をしているように見える。また、上の「戦争の記録(16)」の「遺された声・・・」は中国に残されていた2,200枚を越えるレコード記録で、当時の新京(いまの長春)にあった関東軍の放送局が作製していたものであった。それは日本ではいかにしてマスコミが戦争遂行に力を貸したかを白日の下にさらすものである。

 しかし、そうは言いつつ貴重な記録を残してくれた日本人が滋賀県にいたのを知ってうれしかった。上の「戦争の記録(13)」の「こうして村人は戦場に行った・・・」にその詳細な記録が語られている。それは現在の滋賀県長浜市の西邑紘氏(66歳)宅に千点あまり残されていたもので、紘さんの父で元大郷村の兵事係を務めていた西邑仁平さん(103歳)が、軍の焼却命令に背いて保存し続けていたものであった。日露戦争(10名)以来合計272名の戦死者を出した小さな大郷村の兵事係の仕事は辛いものであったようである。その仁平さんが最後にとつとつと語った言葉は重いものであった。“戦死者の遺族に申し訳ない。ええかげんなことをして、大事な書類を燃やせない”。彼にはその記録の重さが秘かに分かっていたのであろうか。           
あとがき
 最後に、許可をいただいていないがジョー・オダネル氏の「焼き場に立つ少年」を、「写真が語る20世紀 目撃者」のパンフレットからここに掲載させていただきたい。以前「『写真が語る20世紀 目撃者』を見て」や「サイパン」をこのホームページに書いたときにその写真の掲載を検討したが連絡先が判明せずそのままになっていた。今回はジョー・オダネル氏は亡くなられたことでもあり、敢えて無許可で掲載させていただくことにした。このことは明らかに違法であるが、もはや走るだけを通して社会と接点をもつ私にとってはささやかな“反戦運動”であり、亡くなったジョー・オダネル氏と彼の息子さんの願いとも合致するものであると強く信じ、お許しをいただけるものと期待している。なお、この写真について放映されたものは、「戦争の記録(11)」である。

     (2008年9月2日)
「焼き場に立つ少年」(ジョー・オダネル氏撮影、長崎、1945年9月)
参考文書(自著): 注: 文字用の領域がありません!
●北朝鮮からの拉致被害者家族の帰国、そして邦人イラク人質事件で想うこと(2004年5月23日)
●「写真が語る20世紀 目撃者」を見て(1999年8月30日)
●サイパン(1999年9月17日)
●母からの伝言(1998年6月4日)