第1回東京マラソン2007参戦記
ー過酷な条件下、ボランティアの皆さんに感謝ー
マラソンとボランティア
 世界の大都市の中で、ただただ走ることを楽しむ市民ランナーに幹線道路がオープンされていないのは東京や大阪だけだということは、ランナーなら知らぬ人はいないくらい有名なことであった。それにはいろいろな理由があり、たとえば道路網がよく整備されていて長時間にわたっての道路封鎖が都市活動に致命的な悪影響をもたらさないなどの条件があげられる。しかし東京や大阪は十分に公共交通機関の発達した都市であり、その気になれば開催は不可能ではなかったはずである。それにもかかわらずこれまで一握りのプロやノンプロのランナーにしか開放されなかった理由はなんだったのであろうか。

 ひとつにはそのイベント開催に必要な人数を動員出来なかったことにあると思われる。それを可能にするにはとんでもないほど多くのボランティアが必要である(今回のレースでは1万人と言われる)。私にはボランティア精神という言葉がこれまでの日本には十分に育っていなかったためではないだろうかと思う。私がこれまで参加させてもらったマラソン大会でも多くのボランティアの方々が見受けられ、そのサポートのもとでこれまで楽しませてもらってきた。しかし、東京のような大都市で、3万人ものランナーを最長7時間も走らせるためには膨大な数のボランティアが必要であることは明白で、そんなイベントに心から参加してくださるボランティアの方々を集め、組織化するシステムが育っていなかったのではないかと思われる。しかし、あの悲惨な阪神・淡路大地震以来人々の心の中にその精神は住み着き始めたように感じている。その意味で世の中が大きく展開したのであろう。確かに誰かが中心となってこのイベントを動かしたのであろうが、やはり変わりつつ世の中がこのビッグイベントを動かした最大の原動力である、と私は実感している。

 もうひとつは市民ランナーがまさに市民権を得たためであろうか。その背景には確かに健康ブームあるいは”メタボリック・シンドローム”現象があり、多くの方がそのために走り始めたことでその認知度が高まったためとも思われる。しかしもっと探れば、自分の居所が見つけにくくなったいま、苦しくともマラソンを走った達成感の中に自分を見つけようとする人が多くなったことがその背景の重要部分を占めているように思われる。よく考えてみれば、自分もそのひとりに他ならない。そんな時代の到来が、”遊びで走ってる連中に道路を止められるなんてとんでもない”という一般の市民感情を変えさせたような気がする。

 いろいろな理由がこのレースの開催にあると思われるが、私の本音を言えば、”道路は車のためばかりではないんだよ”、ということに尽きる。2年ほど前だったか大都市東京でマラソンをとの話が出て以来、そんなことをいろいろと考えながら是非走ってみたいと考えてきて、いまそれが達成出来たことをうれしく思っている。この文章は、そのあたりのことをはっきりさせるために書いていると感じている。このレースは第一回で参加者には分からないことがいろいろあったので、レース前日、レース当日に分けて気のつくままに書いておくことにする。

 注: 文字用の領域がありません!
レース前日
 私は比較的東京に不案内なこともあって、前もって確かめておかないと不安なことがいろいろあった。走る人間は3万人であるが、それに同伴で来る人も含めると一体どれほどの人達がエントリー受付場所の東京ドームやスタート地点の東京都庁周辺に来るのかは見当がつかなかった。そのため、前日に特に東京都庁前は詳細に確認・チェックしておく必要があった。

 ”東京マラソン2007Expo”が開かれている東京ドームには初めて訪れたが警戒は厳重で、ランナー本人以外は入れず、バッグの中味も検査され、スポーツドリンクなどのペットボトルは持って入ることが厳禁されていたのには驚いた。東京はそこまで来ているのかということを実感した。それはそれとして、そこで運転免許証などの身分証明書によってエントリーの受付をすませ、メインスポンサーのアシックスのブースなどが多数ある会場を見学し(写真)、おみやげ品などを少し買って宿泊するホテルに直行した。なお、そこで当日の荷物預け用の袋を受けとったが、それについては後で少し述べる。
 その日は板橋に宿を取ったが、そこからどのようにすれば早朝の6時台に確実にJR新宿西口まで行けるのかを確かめた。その日はまだ雨が降っていなかったが当日はかなり高い確率で雨が予想されたためスタート地点、雨を避けられる着替え場所を確認した。特に、600台以上のトイレが設置されると聞いていたので、その場所、特にランナーが気づきにくいような離れた場所に設置されたトイレをとくに詳しく調べておいた。これは非常に大切なことで、それをあらかじめ調べていないために特定の場所のトイレに利用者が集中し、スタート前の貴重な時間を震えながら列を作って待つというランナーが実は非常に多いのである。このような調査をしながら当日の行動イメージを十分に頭の中で組み立て、新宿を離れて板橋に引き返し、炭水化物の多い食事をとって宿で十分な休養をとった。私達のような高齢のランナーにとっては無理は禁物であり、そのため若い人達よりも遙かに周到な準備が必要なのである。
レース当日
 当日は、前の晩から降り始めた雨が止め気配もなく、気温も低く気分の滅入るような朝だった。宿から7時前には順調にスタート地点への歩道に到着し、封鎖が解かれてランナーだけの通行が許され、あらかじめ自分で決めた着替え場所兼休息場所と決めていた、スタート地点真下の道路脇の都庁ビルの一角にビニールシートを敷いて座って準備を始めた。

 それからスタート地点への集合までの時間をストレッチ、栄養補給、給水、トイレ、そしてジョギングに費やした。しかし相変わらず雨が強く降っていたため都庁通りの下のふれあい通りの狭い場所くらいしかジョギングに使える場所がなく、多くのランナーが狭い場所でまるで渦を巻くように走るしかなかった。荷物預かり締め切り時間が近づいても雨はやむ気配は全くなく、意を決してダイソーで購入して持参した「フード付きポンチョ」を着て走ることに決め、荷物を所定の袋に入れて決められた番号のトラックに預け、スタート40分前までに決められたブロックに集合した。雨は強く降りつづけ、その時点で既にランニングシューズは水浸しであった。後から聞いたところによるとその時の気温は5度だったようであるが、強い雨のせいでもっと寒く感じていた。
レース結果
 スタートしてみると徐々に体が温まり、また広い道路のために特に混み合う感じもなく意外に気持ちよく走り出すことが出来た。また、フードをきっちりとあごのところでひもで締めていたため上半身には冷たい雨も風も入らず、気持ちよく走り続けることが出来た。しかし横風を受けるとポンチョの裾が流れ、下半身には直接冷たい雨が当たることになり、脚が冷えることを心配した。その経過を示したのが下の表とグラフである。設定したラップタイムはうまくペース配分のできたホノルル方式に従うこととし、1キロあたり5分34秒とした。ラップは1キロ毎に測定したが、2キロ毎にまとめた方がわかりやすいと考え、以下のように表した。なお、ラップは坂などは無視し平坦としてナイキのカリュキュレーターが計算したものを用いた。「実測ー設定」がマイナスの場合には設定したラップより速く走ったことを意味し、プラスの場合にはその逆となる。分かり易いようにこれらのデータをグラフとして図に表した。
図1.設定ペースとの2キロ毎のタイム差(秒)
 ご覧のように、35キロまでは私にしてみればものの見事というほかないほどきれいなラップを刻んだと思う。もちろん最初の15キロくらいまでは少し早過ぎるとも見えるが、このコースの最初の部分は全体としては下り坂なので敢えてブレーキをかけなかっただけのことで、特にスピードアップを意識したわけではなかった。その後34キロまで全く順調なペースで来たにもかかわらず、35キロ過ぎからあっという間に脚全体が動かなくなってしまったのである。このグラフでは見にくいが、34キロからの1キロが5分58秒で設定ペースの5分34秒から見ると少し落ち始め、その次の1キロがなんと8分46秒と一挙にブレーキがかかってしまったのである。

 この落ち込みの原因は、ひとえに気温5度、冷たい雨によって体温が奪われることによる疲労のためと考えられる。40キロ地点前で雨が小降りになったので思い切ってポンチョを脱ぎ捨てたものの、やはりかなり冷たく感じた。36キロからは歩いたり走ったりを繰り返すこととなり、35キロからの残り7.195キロをなんと1時間02分29秒もかかってしまった。昨年のホノルルでのエネルギー欠乏を再び引き起こさないようにとレース前から注意し、レース中もデキストリンやアミノ酸を補給してその防止に努めてきたが、それでも止めきれない後半の極端な落ち込みであった。そんなことがありながら、結局は前半の貯金が効いて一昨年ホノルルで出した自己ベストから20分遅れたとはいえ4時間11分56秒でゴール出来たのは幸いであった。

 それにしてもフルマラソンの報告ではいつもこのようなグラフを出さなければならない私としては、本当に憂鬱と言うほかない。その原因はいろいろで、時にはエネルギー切れ、暑さ、寒さ、雨などなどいろいろな原因(言い訳?)が考えられます。基本的には総合力の不足であることはもちろんだが、まだ何か特定出来る原因があるのかと思うといてもたってもいられない気持ちである。あるいはマラソンとはそうゆうものというのが結論かもしれないが、でも、レース中にバナナ2本、アミノ酸、チョコレートや飴などでエネルギーを補給した人がいるのを知ると、4時間前後で走る我々はもっとエネルギー源の補給が必要なのかとも考えてしまう。
「荷物預け袋」のこと
 今回、最も心配だったのは袋が指定されたことによる預けられる荷物の大きさであった。東京在住でなければ泊まりがけで出かけることになり、おまけに寒い冬となれば着るものもかさばるため大きな荷物となることはやむを得ない。それを全部ゴール地点まで運んでもらえないとなればスタート前に入らない分をどこかに預けておかなければならない。そうなれば疲れ果ててゴールした後でそれを取りに預けた地点まで戻ることになってしまうのである。

 左の写真は荷物預け袋の裏である。表の真ん中には別に供与されたゼッケン番号を貼り付ける場所であり、裏には今回のコース地図がユニークな絵柄で書かれている。当初送られてきた「参加のご案内」には、荷物預け袋のサイズは40cm x 80cmと書かれていて、これではバッグなどを入れるのはほとんど不可能だと思った。そこで電話で確かめたところそのサイズは間違いで、60cm x 80cmだと知ることとなった。でも、東京ドームでその袋をもらって宿で自分のバッグが入るかどうかを確かめるまでははおおいに不安であった。しかし、宿で試したところ、底の方に9cmの”まち”があるため意外に大きなバッグをそのまま入れることができ、荷物全部をトラックに預けることが出来た。ちなみに私のバッグの幅、奥行き、高さの最大値はおおよそ51cm x 44cm x 35cmであった。この袋はかなりの厚さのプラスチック製で、ひもが両方についた丈夫なもので、着替えや飲み物シューズなどを一杯に詰め込んだバッグを入れても大丈夫であった。来年このままのやり方が踏襲されるとしてもあまり心配する必要はないようである。


『写真の説明』40キロ直前でポンチョを脱ぎ捨てて走っている筆者である。やっとの思いでここまで辿り着き、ゴールが近づいてきて思わずガッツポーズが飛び出している。
ボランティアの皆さんに感謝
 今回のように東京の中心街を走り抜け、信じられないほど多数の方々の応援とボランティアの皆さんのサポートを感じると、何はともあれゴールしたときには涙が出た。走っている人間からみると、沿道の方々が本当に心の底から応援をしてくれているかどうかはすぐ分かるものである。今回の応援・激励は本当に凄かった。ゴールしてメダルをもらった後で、ボランティアのおじいさんに「本当によく我慢して走ってくれました」と言われたときには思わず手を握り返した。

 これを書きながらあらためて、これまでどれほどボランティアの方々にお世話になってきたかと有り難く感じている。とりあえずは、楽しんで安全に走ることが皆さんのサポートに応えることと思うが、はたしていつになったらどんな形でその恩返しが出来るのだろうかと思う。そのことを考えながら、走れる内は存分に皆さんのお世話になりたいと思う。サポートに廻れるまでのあいだ、しばしお許しを願いたいものである。

 その安全に走るということについて、もう一言感謝の言葉を最後に述べさせていただきたい。それは「自動体外式除細動器(AED)」を大々的に配置して下さったことである。これはランナーにとって大いなる安心であった。報道によれば、5キロ以降1キロ毎にAEDを設置し、なおかつ自転車に乗った移動可能なモバイル隊も配置されていたという。そのAEDのお陰で今回も2名の方の命が守られたようである。同様のことは昨年末のホノルルマラソンでも起こり、1名の日本人の命が救われたと翌日ホノルルのテレビで大々的に報道されていた。心臓が血液を送り出せなくなる細動の原因は不明のことが多く、それから命を守るためには人が多く集まる場所には必ずAEDを配置するという対策しかないとのことである。これからもこのようなマラソンレースだけではなく、ひとが多く集まる施設に出来るだけ多くのAEDが設置され、人々の命を守って下さることをお願いしたい。
                            (2007年3月11日) 
【追記】
 
 本日、毎年走っている京都シティハーフマラソンに参加した。東京マラソンから1ヶ月も経っていないが、特に故障もなかったので参加した。しかし、東京マラソン当日と同様に寒く、冷たい風が吹く難しい条件で、雨が上がっていたためにポンチョを着ずに半袖Tシャツとランシャツであったが、それが冷たい風に体温を奪わせることにもなった。5キロまでは24分22秒、しかし6キロ以降変調を来し5-10キロに28分40秒かかったことからその時点でリタイアを決断した。これは今シーズンのスケジュールがきつかったからかもしれないが、そのこととは別にきわめて低温で風が吹くときの服装については、60歳代のはじめの頃とは違ってもっときめの細かい対応が必要だと感じるようになった。東京でポンチョを着ていたときの温かさを今日になって感じ始めているのである。お粗末ではある。