山形の 芋煮会
 第70回日本動物学会に出席するため、先月末の26日大阪伊丹空港を飛びたち、2度目の山形の旅を楽しんだが、山形の思わぬ暑さにはほとほと参った。テレビの天気予報での温度のチェック、山形の友人への電子メールでおおよその見当を付け、長袖シャツ、ネクタイに滅多に着ないスーツ姿で臨んだのが間違いだった。でも、それが思わぬ情報のタネになったから不思議である。
 到着した日に早速、かって名古屋大学で一緒に仕事をした仲間の家を訪ねた。中学2年生のお嬢さん、小学6年と3年の男の子のいる賑やかな家庭で、久しぶりに自分の子供達が小さかった頃の忙しく、また悩みの多い日々の一端を体験することが出来た。宿題の作文を書かずに寝てしまい、その子を起こして書かせる親の苦労。膝を痛めて好きなサッカーが出来ない子や朝練に行きたくなくなった子供たちをどうするか悩む親。昔、同じような子供達を見てきた私にとってはなつかしく、また切ないひとときでもあった。
 そこの主人が意外にも料理をする姿を見せてくれた。大学に学生としていたときにはとてもそんなことをする若者とは思わなかったが、故郷の山形に帰って自分のふるさとを自覚し、それを代表する食べ物を料理するようになったのだろう。その味は自分でしか出せないとして、奥さんには作らせないとのことであった。”芋煮です”と出されたものは、里芋、山形特産のこんにゃく、ネギ、牛肉などを薄い醤油味にした煮物で、とても透明な感じのするふるさとの食べ物という感じのものであった。何ともいえず美味しい煮物で、「板そば」を食べ、ビールを飲んで少しお腹の大きかったわたしも早速2杯いただくことになった。こんな簡潔なもてなしの料理が田舎にはあるんだ、と感嘆した。山形市は人口25万人の大きな市だが、山形駅から南に5分も歩けばそこには立派な畑がある街である。
 聞くところによると、例年9月の最後の土・日曜日には大芋煮会が馬見ヶ崎川の河川敷で開かれるという。そういえば、空港からバスで山形市内に入るとき通った川の河川敷では沢山の人が群がって何かをしていたのを思い出した。一日おいた次の朝6時に起きて、恒例となっている朝のジョギングに出掛けた。何年か前から学会に出かけるときには、ジョギングパンツとランニングシューズ、それにTシャツを忘れずに持ち、訪問した街の適当なところを走り回ることにしていたからである。早朝でも暑いのと大芋煮会があったはずで涼しいであろう馬見ヶ崎川の河川敷を目指して3、4キロ走った。そこには良く整備され、あちらこちらに釜のあとであろう、黒く焼けこげた石の囲いが点在する河川敷があった。蔵王から流れる水は冷たくて美味しく、透明であった。
 涼しさを存分に感じ気持ちの良い気分を味わったあと、ひとまず宿にジョギングで帰り、まともに学会に出席して少しだけではあるが勉強をした。次の日の夕方再びその場所に出掛けた。その河川敷の堤防におばちゃんが夕涼みをしていた。とても優しそうな60歳代の人で、気軽に世間話の相手をしていただいた。そのおばちゃんの立っていたあたりの河川敷にはそれほどの釜跡はないようだった。「このあたりにあっった酒屋さんが店を閉めてからは、このあたりではあまりやらなくなったんです」、「どうして?」、「酒屋さんが、薪などの燃料なんかを提供してくれていたんですよ、いまは自分で用意するのは大変だからね」、なるほどと思った。「でも最近は、スーパーなんかがそれに代わっていろんなことを手助けしてくれるのでみんな助かっていると思いますよ」ということであった。
 そのおばちゃんの話によれば、芋煮会はほんとうに素晴らしい行事で、その大芋煮会から10月一杯、暖かい週末には大勢の人たちが河川敷に集まり、それぞれ楽しみ、月曜日にもその日が休日になる床屋さんたちがまた集まる、そんな光景が延々と続くのだそうである。みんな美しい川の流れる音を聞きながら芋煮を食べ、お酒を飲み、語らいを楽しむのであろう。河川敷も芋煮会が出来るように整備され、そこを管理する河川局の看板には、どこにでもあるような「焚き火の禁止」などはもちろんなく、芋煮会の後片づけをちゃんとするように、と書かれているのみである。
 都会の河川敷は、多くの場合コンクリートで固められ、ちょっとした遊び場はあってもバーベキューなどのために焚き火することは出来ない。アメリカ西海岸のほとんどの公園にはそんな場所がきちんと用意され、みんなが週末には楽しんでいる。そんなちょっとした生活の余裕が、山形にちゃんと残っていることがうれしかった。かっての日本には、私のいた三重県の山奥にも、地域で楽しむ行事が営々と受け継がれてきていたはずであった。それが戦後、急速な経済発展とともに急速に失われてきている。「経済大国日本」「科学技術立国日本」とはやし立てられ、みんながその気になってしまったいま、振り返ってみれば殺人事件が日常茶飯事となり、ましてや考えられない「臨界事故」まで引き起こすようになってしまっている。
 不況、不況と駆り立てられ、みんながあくせくと動き廻っている間に何が大事なことだったのかが分からなくなってしまっている。自分のやるべきことをもう一度考え直す時期はとっくに来ている、いやとっくに通り過ぎてしまったのかもしれない。ひょっとしたら、自分たちのこれまでのやり方に、もう少し自信を持った方がよいのだろうか。(1999年10月6日)