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 この文書は、私が当時名古屋大学理学部化学科生物化学研究室に在籍し、その中で多くの同僚とともに考え続けた内容をさらに4年生の配属学生であったYK君との討論で1972年12月(当時私は33才で助手)にまとめあげたものである。K君との共同研究は当時異例であった、実験を伴わないものであり、それ故彼の卒業の時点では多くの難問を引き出すことになった(別の文書、「我々にとって卒研とは?」を参照されたい)。この文書は、その時たまたま「蛋白質・核酸・酵素」が理論的な論文を募集していたこともあり、それに応募しようとも考えたが、あまりにも長く、またそれを短くすることもできず、遂にお蔵入りになってしまった。いわゆるアングラ版である。
 しかし、大阪大学で平成6年度(1994年度)からスタートした全学共通教育機構の主題別科目「生命現象における秩序形成」の講義を担当することになった私が自然に学生達に話している内容は、現代科学の方法論や考え方をみつめることであった。そのことを考えるとこのアングラ版は、わたし自身の考える軌跡と土台を現したものであること、具体的に取り扱った問題が未だに未解決の問題として残ってしまっていることに気づき、この文書を一般に公開することとした。いまから読み直してみると、いかにも勢い込んだ、何かせっぱ詰まった感じもし、また未熟なものでもありそうである。これはその時の状況とわたし自身の状況を現している。また現在の時点で理解できないことも多い。それはその当時未熟であったこともあろうが、いまの私の頭はその当時ほど研ぎ済まされてはいないという現実があることは明らかである。そんなこと、あんなことといろいろと考えられるが、1972年という時期に書かれたものであることを念頭においてお読みいただければ幸いです。なお、内容はタイトルほど糖関係だけに限定されていないことと参考文献をとりあえず削除してあることをお伝えしておきたい(1999年7月)。
分子生物学と多糖含有化合物の生化学
−分子生物学の克服を目指す2つの試案を含めて−

I.分子生物学の再検討とその立場の持つ困難性
 ここ10数年間生物学界に君臨してきた分子生物学は現在その転機に立たされているという多くの批判があるようにみえる。もしこの批判が当を得たものとしてあるとするならば、その限界はどこにあり、またなぜそのような限界が我々に見えにくいものとしてしか存在しないのかは、分子生物学を克服しようとするものにとっては重要な課題でもある。なんとなれば我々糖という曖昧模糊としたテーマを扱っている者にとっては、所詮この化合物の合成・分解などの代謝は、現在のところいままでのCentral Dogmaを生んできた分子生物学(1-3)の延長線にあるものとしてしか把握されていない。このことは、糖の生合成などの問題は分子生物学の範疇でのメカニズムの問題であり、予定調和の問題であって、その仕事の過程で何かでっかいことにぶつかれば儲けものという以上には出れないのが現実ではないだろうか。
 たしかにメカニズムをいかに解くかということは、それによって自らの思考様式を変革するという観点を含むかぎり重要である。その意味において我々が扱うテーマは実はなんでもよいのであるが、しかし残念ながら現実はそうではない。たとえばここ10数年間分子生物学に関する仕事に携わってきた研究者と糖関係を扱ってきた研究者の数は、正確な数字は持ち合わせていないが、世界的にみて圧倒的に前者が多いと推定してそれほどの間違いはないと考えられる。このことは次のことを意味している。つまり、一定程度生物に位置づけられた分子生物学は、何らかの意味付与が研究者にとって可能であり、若い研究者をも引きつけることができる。言い換えるならば研究者にとって、それが作り上げられた位置づけにせよ、実験そのものが生物を扱い得ているという実感を原動力にすることができるのである。一方、糖の領域は、貯蔵物質として以外には、たとえば糖蛋白質、ムコ多糖体は生物にとってどのような意味を持つのか明らかでなく、その代謝・構造を”いかに解くか”ということ以外にはなり得ない限界をもっている。このことが、糖研究者にとっては生物を扱っているという実感をもつことを許さず、我々は一種の居直りの状態での研究を余儀なくされていると考えられる。このことは糖研究者のみならず膜の研究者がそうであろうと思われるし、もっと広く言えば、動物細胞を扱う人々も同じ状態ではないだろうか。ただ動物細胞を扱う人々にとっては、Central Dogmaを形成させたバクテリアより遥かに複雑な系を扱っているとの自負心を持っていることは理解できるが、やはりそれ以上ではない。
 一人一人の研究者が行う研究の中で、いかにそのメカニズムを解くかということは、ひいては取り扱っている対象が生物の中でいかなる意味を持つのかへの突破口であることは言うまでもないが、そうは言いつつ莫大なデータの集積がありながらなお分子生物学を乗り越えた地点で各領域の内容を生物の内に表現できていないことも明らかである。ことここに至っては、各領域のメカニズムの解明と同時に分子生物学への検討と批判は欠かすことはできず、この二つの問題を統一した形で、すなわちメカニズムを解明しようとする立場を分子生物学の検討とおく方向性の延長線上ではじめて分子生物学を克服する道が開けると思われる。
 このような意味で私にとっては分子生物学の限界を少しでも明らかにすることが、それを乗り越える視点を創り出すということで意識的に実践してみたい。このようなことを試行する場合、現代一流の分子生物学者の考え方なり思想なりを批判的に検討することから始めるのが常道であろうと考え、渡辺格氏の書かれた「分子生物学の新しい動向」(4)を議論の出発点としたい。
 彼はこの文章の中で、「戦後20年間の分子生物学の重要な成果は、生物の遺伝的な性質を決めている、いいかえますと生物の同一性をきめているものはDNAであり、蛋白質が決めているのではないことを明らかにしたこと」とのべ、さらにその上に立って「外界はいろいろに変化いたしますけど、そのいろいろな変化に応じて自分を一定に保つというような仕掛けが個体の中にあるわけで、その元も全部DNAにある」というのが分子生物学者の基本的な考え方であることを述べています。この2つの問題は必ずしも同じではないが、しかし根底にDNAを置き、これに全権委譲をしている点は全く同じとみて間違いないであろう。そしてさらに氏は楽観的に次のようにも述べている。「第1期の分子生物学は、物理現象と生命現象の間に、非決定論的なものは何もないことを示しました。ただ生命の起源は何かという問題は現在でも分かっていません。それから細胞とは何かという問題も分かっていない。これからの第2期の仕事は、その上に立って多細胞生物の体制の謎、たとへば免疫現象とか、癌の問題とか、分化や発生の問題を研究することであり、それの一番大きな問題としては脳の問題があります」。ことここに至ってはあまりの楽観的な分子生物学への過大評価を感じざるを得ない。なぜなら上にもあげたように「細胞とは何かも分かっていない」し、細胞分裂がなぜ必然化されるかも全然理解されていない。また、私達の研究領域である糖蛋白質、ムコ多糖体の構造の多様性というものについてもなんの示唆も与えられない。このような問題はきわめて本質的な問題であるからこそ解き得ていないのかもしれない。もしそうだとするならば、いままでの分子生物学は”何故そうなっているのか”という問題を解く方向の中で”いかにあるか”という問題を解こうとしていなかったのではないかという素朴な疑問が出てこざるを得ない。そうゆう意味で、渡辺氏の文章の中の「・・・その上に立って・・・」の内容は、「第1期の分子生物学の成立過程から現在までを批判的に検討する立場に立って・・・」とならなければいけないのではないだろうか。この点に関して我々の立場からさらに検討を進めてみたい。
 この点を明らかにするためには、分子生物学の成立過程、特にこの場合DNAの把握の仕方を問題にする必要がある。渡辺氏によれば、この過程は「実際の地球上の生物は生きているだけでなく、同一の子孫を作るので、不変なるものの存在が想定された」過程であり、その結果「この実在がDNAとして証明された」のだと述べている。このことは、それまでの生物学の観測してきた”変化”−個体発生や進化−に対して”同一性の保持(恒常性)”を対置したものであり、決して”変化”の概念を克服したものとして「不変なるものの存在が想定された」のではなかったように思える。なぜならこの論文の中で氏は「現在の地球上の生命は、結局細胞生命である。この細胞生命というのは、A→Aというふうに同じものがふえてゆく。だけれど、生物は同じものがふえなければならない必然性はない」、「しかし、地球上の生物がこうゆう形態をとっているにすぎないと考えるべきでしょう」と述べていることにうかがわれる。つまり分子生物学者にとって、細胞あるいは個体はA→AでもA=Aでもかまわないものとして、いいかえれば、ただたんにA→Aであって、そこに必然性を認めようとはしない。このことは、DNAの把握の中にはA=AはあってもA→Aという変化の概念を持ち込めていないことを示している。この原因は「不変なるものの想定」がそれまでのものに対する対置であることが明確に意識されておらず、意識されていたとしても現在でも克服されない程度のものとしてしかみられていなかったことによると思われる。しかも現時点でも意識されていないために前述したような楽観的な立場が構成できるのではないだろうか?この分子生物学の限界性は、それが意識されていたかどうかというより次のような問題を生んできたといえる。
 今までみてきたように、「不変なるものの想定」がそれまでのものに対する対置以上ではなかったという限界が認識されていなかったからこそ、この「不変なるもの」はそれの属性としてrigidさ以上の概念を持ち込めず、変化するものとしての概念は切り捨てられてしまった。しかもこの実証としていわゆるCentral Dogmaを生んでゆく過程の分析的手法がそれまで近代科学(物理学、化学)を支えた方法論と全く一致した結果として無数のデータの収集が可能となり、いわゆる近代科学としての”分子生物学”が成立してきたのである。この過程の中で従来の”なぜそうなっているのか”との問の形式を忘れがたい生物学の諸分野は、その結果が数量化しにくいこともあって次第に生物化学を基盤とする分子生物学に圧倒されてしまった。ただ最近、いわゆる近代科学に対する批判として再び活気を取り戻そうとしているように見える。このような分子生物学への偏りの中で全てをDNAに押し込むという方向が確立されていった。すなわちDNA万能主義であり、先ほども引用したように「外界はいろいろに変化いたしますけども、そのいろいろな変化に応じて自分を一定に保つというような仕掛けが個体の中にあるわけで、そのもとも全部DNAにある」という方向へ転落したのである。このことは今まで述べてきたように、「不変なるものの存在」の想定が対置された方法論以上のものでなかったにもかかわらず、いつのまにか本質的な問題把握へすり変わってしまったのである。この無意識的なすり変えは次の文章、「いまわれわれは、なぜ遺伝学を生物学の基礎におくかというと、やはりこうゆう変わらないもの(DNA)があるからで、それを基礎において、方法論的に生物現象を解いてゆくのが一番実りがあるのではないかというわけです。変わる方から研究すると、方法論として危ない問題があるのではないか。要するに、ある環境では、形なり機能はもちろん変わるかもしれないが、そのような環境変化があっても不変なものがあると、それだったらその不変なものを土台に考えていった方が方法論的には確かだろう。潜在的に決定論的なものが生物の中にある。それが地球生命の本質的な問題だということになる。」ということの中に端的に現れていると思われる。それではこのようなDNA万能主義は生物を構成する様々な素材の把握をどのように歪めてしまったのかを次に考えてみたい。
 今まで度々引用してきたように、遺伝を含めて生体の恒常性を維持する情報は全部DNAに入っているというのがいわゆる分子生物学的決定論であるが、しかし一卵性双生児は個体として異なったものであり、また生体の各部分のDNAは同一であっても分化という分からない内容を環境という言葉で表現しなければならないことは決定論なる言葉の持つ意味をあらためて考えさせるものである。我々にとってはこの言葉はDNA万能主義の所産のように見える。確かに同一性の生産の中にはDNAの伝達があることは理解できるが(変化の概念については後で考察したい)、これはあくまで量の伝達なのではないだろうか。ところが分子生物学的決定論の中では、DNAの中に(Central Dogmaまで含めて)その”量”と”質”まで含めてしまっているように見える。”質”は物同志の相互作用によって決定される概念、すなわち関係概念であり、”量”と”質”の概念は並列的なものでなく、ある意味では対立的な概念ですらある。この意味で分子生物学的決定論は”量”と”質”をごっちゃにした扱い方であり、DNAの中にこれらの問題を押し込んで(しまった概念になって)しまい、DNAが大切か、それ以外のものが大切かという二者択一を迫る内容をもっているものである。そして現在においてはDNAを最重要なものとして、そして環境を「どの遺伝情報が読まれるかという選択の問題」として説明用語に転落させてしまっているといえる。つまり”環境”とは、DNAで現在説明できない現象の逃げの言葉のように見えてくるのである。このようなDNA把握をする結果として(Central Dogmaを含む)、DNA以外のものはDNAの”従属物”に転落し、そこに”予定調和論”が登場する糸口が存在するのであるが、もちろんこの言葉は何の実践性をも持たないことは明白である。このことは、分子生物学そのものが膜や糖、リピドなどのものに何の示唆も与えられていないことからみて当然であるし、「主要的な立場にあった分子生物学者の多くが、いま脳の問題に移っている」のは、これら主要な分子生物学者がDNA以外のものを扱えない限界を明らかにしようとしない、いいかえれば逃げの立場であり、なおかつ問題を横滑りさせているだけだと極言することもできるのではないだろうか。
 もしこの議論をさらに進めることが許されるなら、進化の問題を説明以上には今の分子生物学が扱えない根拠を述べることもできる。少なくともDNA以外のものをDNAの従属物としてみる以上それを、外部からの情報を細胞外→膜→原形質→核へと移動させ、そしてDNAにそれを組み込むものとしての素材とはとても考えられない。いいかえればDNA以外のものは決してDNAの優位には立てないからである。それ故に獲得形質の遺伝、細胞質遺伝は考える対象から省かざるを得ない。また”個体発生は系統発生を繰り返す”という有名な言葉を、前の生物を土台にしてはじめて進化が可能であった、つまり変化がたとえ突然変異であるにせよ、それの情報としての獲得には一定の順序が存在しなければならないものとしては把握されず、ただ次のようにみられるだけである。「複製の間違いの大部分はだめになるんですけども、確率からいって、ときどき結果的にいいことも起こる。それが生き残ってきたために進化が起こり、結果的には合目的的な生物になるんですが、合目的的な性質を持つようになるような原因は生物の中にはないというのが分子生物学者の考え方です」。私にとっては、「合目的的な性質を持つようになるような原因」は、どのような契機であれ、その情報の獲得順序(これが表現順序を規制するとして)の中にあるように思えるのだが。
 いうまでもなく進化の問題は、”時間”というものを情報の獲得形式の中でどう考えたらよいかの問題であるが、「不変なるものの存在の想定」の過程では”時間”をどう扱っていたのかをもう一度考えてみたい。いわゆる分子生物学の出現までの生物学は、主に多細胞生物の形態学的、生理学的、遺伝学的変化を主として”時間”の関数として扱ってきた。もちろん進化もその例外ではなかったように思われる。しかし分子生物学の台頭は、前述したように、変化に対置して恒常性を生物学の中に持ち込んだ。このことは明らかに生物学から”時間”を取り去ってしまい、”時間”の概念のないモデル化した思考の中で生物を把握しようとしてきたといえる。このような思考様式であるからこそ、増殖時間のきわめて短いバクテリアの系が、実験材料としても容易なこともあって分子生物学の基礎を築いたのである。ここで私が特に問題にしたいのは、いわゆる”生物学的時間”である。生物は常に時間をひとつの方向に向けて、しかも積算されたものとして使っている。いいかえるならば細胞分裂から次の細胞分裂まで、また発生から分化、成長、老化そして死へと生物の時間は動いてゆく。しかるに分子生物学の場合には、上に述べたように”時間”を切り捨てているが、たとえ”時間”があったとしてもそれはひとつのサイクルの回転に要する、まさに”物理的時間”なのではないだろうか。私のいうのは、逆転のきかない”生物的時間”を生物はいかに実現しているかという問題設定が生物学には必要不可欠なのではないかということなのである。なぜなら地球上の生命にとって最も基本的なことは、A=A出会ってもよいのではなく、たとえ同一性の再生産であってもA→Aであり、ひとつの個体の変化の場合にはもちろんA→A'→A''→.........→死という矢印が存在することであるといえるからである。このような”時間”概念の欠如が分子生物学の欠陥であることを述べたが、これと同じ次元の問題として”場所”の概念の欠如をも述べなければならないであろう。
 この”場所”という概念は、上に述べた”時間”と同じような形で生物からはずされた結果として、やはり単純なバクテリアで分子生物学が成立したといえる。そしてそのCentral Dogma成立過程とその結果は、やはり”場所”の問題をDNAと対等のものとしては把握し切れていないし、そこへ向かう方向も出されていないと思われる。最もよく取り扱われているリボゾームの問題も、ただ蛋白質合成工場のひとつの因子としての扱い方であり、場所の問題ではない。すなわち、分子生物学的決定論からは細胞の中の場所をどのようなものとして規定したらよいのかは全く不明である。いいかえるなら、この決定論は前述した時間の場合と同じであるが、場所あるいは形態という概念を細分化するまたは無視しがちな影響を与えはしたが、決してそれに対して新たな内容を付与し得てはいないといえるのではないだろうか。このような原因、つまりCentral Dogmaと細胞構造の関係を把握しようという方向性がないように思われる原因は、前述したようにDNA以外のものはDNAの従属物以上にはなり得ない思考様式の中に潜んでいると考えてよいであろう。
 いままで述べてきたことをまとめると、分子生物学はその成立過程において”量”と”質”をごっちゃにし、変化の概念を切り捨て、そして生物から”時間”と”場所”を取り去ってしまうという大きな限界を露呈してきたように思える。このような限界はDNA→RNA→Proteinという、いわゆるCentral Dogmaの中にどのように表現されているのであろうか。もちろん、この過程の中に”時間”も”場所”も含み得ないことは明らかである(たとえ多細胞系でものを言うにしても)が、情報の把握の仕方の中にも限界があるようである。このドグマの中では、DNAはひとつひとつの蛋白質つまり”単位”の集合体とみられており、極言するならば”単位”を変化するもの、あるいは分割できるものとして扱っていない以上、DNAはやはり不連続性という限界を持つものではなかろうか。その意味で分子生物学者が多細胞系生物の一見不連続的変化である分化に興味を示しやすい理由もよく理解できる。しかしながら分化を引き起こすまでの、またその急激な変化の後のゆっくりとした連続的変化については全くアプローチが不可能である。すなわち、分子生物学的決定論における変化とは、DNAからの情報が引き出されるかどうかであり、コンピュータによる0か1という情報の扱い方と極似している。このような点の克服は、さらにAllosteric effectという、恒常性の枠の中ではあるが新しい概念によって行われた。私にとっては、このような概念だけで生物の示す連続的な変化、前述したことであるが特に生物学的時間を含めた変化の見極めが可能だとは思えない。またDNAに関していえば、ひとつの細胞の中においてもその時間によって変化するものとしてのDNAという視点を今よりもっと積極性を持ったものとして取り上げるべきではなかろうか。
 いままで述べてきた分子生物学の再検討は表面的で感覚的なところがありまとまりを書いているものの、いくつかの積極的な批判が可能のように思える。いままでも幾つかの分子生物学に対する批判が試みられている(5-10)。そのいずれもが生物学的社会学的にみて大きな影響力をもつ分子生物学をいろんな立場から克服しようとするものである。なかでも水野伝一氏は(9,10)、前述したような不連続性を鋳型で作られる高分子物質を膜とかオルガネラにおける相互作用によって克服しようとするものであり、また吉川寛の批判は(8)、自らの分子生物学者としての立場を批判的にみながら新しい方向を探ろうとするものであり、それだけに的確な批判として受け取らざるを得ないであろう。それ故にこそ、渡辺氏の「生物学の新しい方向というのはいろいろなものが決定論的に決まっているのだという立場に立って研究することであるといえる」との言葉は、少し楽観的にすぎるように思えてならない。
 このような批判を書いたからといって私が分子生物学者ではないというのではない。私自身分子生物学的思考、Central Dogmaと分子実体主義、に大きく影響された”分子生物学者”であり、たまたま渡辺氏の文章を踏み台にしたのはこれまでの私の内容をうまく表現してくれているからである。ただ、糖というものを研究テーマとする自分のあいまいさを克服するものとして、それまで不問に付してきた分子生物学的思考に対して疑問を投げたのであり、その結果として以上のような批判を書かせた次のような危機感を感じとったからである。”量”と”質”を曖昧にし、生物から”時間”と”空間”を取り去った分子生物学は、その限界を明らかにしようと努めていなければ結局観念論に転落してしまうと。なぜなら、実にすさまじいばかりのデータをあげているだけに、その中味は常に冷静な目で見通さなければ、原因と契機、偶然と必然とを見間違え、吉川氏の指摘するように”生命とは何か”との本質の科学の問いを放棄し、”いかにあるか”というメカニズムの問いのみに終始してしまう技術を志向する科学にならざるを得ないからである。このことは真に今日的な問題である。
 ここまで私が述べてきたからといって本質的な問題が解けたわけではない。なぜなら、何故生物工学でもない、基礎生物科学である分子生物学の最終目標が”生命とは何か”の解明ではなく、人工生命の創出というような方向を志向する(4)のかということである。さらに、確かに分子生物学は時間と空間を切り捨ててきたが、何がこれらを切り捨てさせたのかという2つの問題である。前者についていえば、このような目標を設定し、そしてそうゆうものを作って見せなければその有効性を提示できないということもいえるし、また後者については、それまでに確立されつつあった要素論的方法論の結果であり、それは現代社会を構成する思考様式に一致したことであるかもしれない。それにしてもあまりに大きな犠牲を払ってしまったようにも思える。それはともかくとして、そのような安易な内容ではなくひょっとしたらもっと哲学的な内容であるかもしれないし、また分子生物学のもつ価値観の問題なのかもしれない。この問題は今後さらに解明しなければならないことであろう。そうゆう意味でここに書かれた内容はやはり対置という限界を出れてはいないのであろう。
 このような問題を残しつつ、なおそれまでに述べてきた我々の立場を明らかにすることに有効であり、かつまた、それによって深めることのできた2つの実践的な試案を次に展開しておきたい。いままで分子生物学を克服しようとして出されたものは、いずれも分子の次に来るべきものとしてオルガネラ、または細胞、組織の問題であるが、むしろ私は敢えていままで分子レベルで扱いえたと思っていながら扱いえていなかった点や、さらに分子生物学的にはいかんともしがたい多糖の構造の多様性という分子レベルの問題を出発点にしながら”場所”あるいは”時間(生物的)”に関して議論してみたいと思う。そのどちらの場合にも、現在ばらばらに取り扱われてしまっている構造、生合成そして機能の問題を、ただ相互にきっかけを与え合うというだけではなく、ひとつの構造の把握から生合成あるいは機能に対して一般性をもった概念を持ち込もうと意識したものである。それ故に、無秩序に乱立したデータに混乱されないように、敢えて必要最小限のものしか使わず、また視点が違うため必要なデータがないこともあって無意識的に放棄している問題や、従来の考え方では解きえない問題があることを指摘することに主に意味があると考えるために、あえて2つの試案として展開するのであって、そこからこれらの問題に対する議論が行われれば幸いである。(1972年12月)
(なお、以下の試案はタイトルからみればいかにも糖関連のことのみのように見えるかもしれないが、実はそれ以外の内容も多数含んでいるので、できるだけお読みいただければ幸いである。)
II.糖蛋白質の構造のHeterogeneityと糖ヌクレオチドからの糖転移反応
 
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III.細胞外物質の多様性と相互作用の連続性
 
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